8月12日の午後4時過ぎに、桜島にいた

18日の16時過ぎに桜島が大噴火したというニュースに驚いた。12日の午後4時ごろに孫と行った時には、タクシーの運転手さんが「夏はたいてい鹿児島の市街地に灰が降るのに、今年はこちらには全く来ていません」と云っていた。「本当はね、ホテルの辺りもすご…

桜島、肥薩線、人吉

孫に「ボーツ」とした時間を過ごす人になってほしいと思っている。ゲームをしている時間は、何か追われているように見える。 私は、子供のころ母親の手伝いをしている時、別のことを考えてしまってボンヤリとしていることが多かったようだ。と云うのは、母親…

孫3人と私の“オチコボレ伝承の旅”

ひと月前、3月26〜8日の3日間、高一、中一,小二の三人の孫と一緒に、私のふる里へ行ってきた。ねらいは一つ「うまく行かないときがあっても、落ち込むな」ということを、私の経験を話ながら伝えることである。 具体的には、一人前の大人の体験をさせる…

金の話②

金の話を書く気になったのは、先生方みんなが、インフレターゲット論をしゃべっているからだ。金本位制で考えると1キロ100万円ぐらいから400万円ぐらいになっているのだから、「紙の紙幣の値打ちは1/4に」なったのだ。つまり世界はインフレなのだ。 …

金を買った話−インフレ・デフレ論

最初に買ったのは1キロ111万円(1110円/グラム)だったかな。何時のことか思い出せないので、ネットの田中貴金属のページを見ると2001年の頃らしい。次は2004-5年頃だと思う。もう150万円に近づいていて、それでも150万円は超すだろうと思ったが、優柔不断な…

一生、試験を受けたいのですか。仕事場へは受験会社の人と出勤するのですか

就職試験の受け方を、教えるというセミナーを受ける学生が多いようだ。この意味が分からない。しかし流行っているようだから、有効なのだろう。おそらく試験に受かって会社に入ったら、受験アドバイスの会社から、人を一人派遣してきて、新入社員の後ろにく…

超特級のオチコボレ万歳

東京マラソンで、オチコボレが日本人一位。 川内さんがゴールの走り込む所を、テレビで見て一人で手を叩き、興奮した。産経新聞によると、彼は自らを「落ちこぼれ」と称し、「実業団には負けたくない。お金をもらわず払って陸上をしている」といっているそう…

スタートで遅れても、丁寧な仕事をしていると取り返せる

民業としてのコンサルタント業が発生する時の、一人のオチコボレ側の参加者としてやってきて、結構楽しみながら仕事をしてきた。当時は、この仕事は役人と、学者の世界だったが、「契約」という仕組みを通さずのやっていけない状況が生まれつつあった。従来…

何時もノロマだと云われて育った

兄や姉から、何時も“ぐず”だと云われていた。ぐずを新明解で引いてみると、「決断力に欠け、てきぱきとした動作が出来ない様子(人)」となっている。 しかし母親は「お前は“丁寧者”だ」といってくれていた。畑の草取りでも家の中の掃除でも、小さい草まで気…

転社はしたが転業・転職はしなかった→ずっとコーディネーター業

九州に来た頃、高名な大学教授から「糸乘さんの仕事って、どんなことなんですか」と聞かれたことがある。 私は「始めは編集屋でね、次は土建屋で、次が計画屋・事業推進屋で、大体今も続いているんです。まあ、今様の言葉で云うとコーディネーター、早い話、…

池部良、水木しげる論 私の兄への鎮魂歌

私は長兄と15才離れている。1983年になくなっている。池辺や水木と同じ方面の、ラバウルで大砲の破片が、上顎左から入って口中を通り、下顎の右へ抜けている。アゴが壊れ、シタが切れているので何も食べることは出来ず、砂糖のかたまりをもらって嘗めながら…

私の生まれた家 昭和10年頃

この写真は「神鍋観光60年史」の扉ページの写真の一つです。馬の右側の雪の小山は、積もった雪と屋根から落ちた雪が山になったもの。私の生まれた(写真の1年後)家は小山の右側なので写っていない。母屋の鍵の手に2階建ての離れがあったので、この写真の目…

狐のたくらみ

私の読書体験に第一位に上がる本だ。大阪に勤めていた8才上の次兄が送ってくれたモノである。昭和22年の発行だから、私は小学5年生だったことになる。 一読、訳が分からなかったような記憶がある。それが、今思い出させる理由にもなっている。 動物国の…

「親が死ぬまでにしたい55のこと」という本があるそうだ

実はこの言い方が気になる。子供の頃から、親に対しては「してあげる」という言い方で生きてきたので、「したい」では自分が主体的すぎる。つまり、「金がどこにあるか探って、取り上げておく」ようなことに感じる。 母親はまだ死ぬとは思えなかったし、姉の…

②オチコボレから逃げようと思うな。オチコボレのプライドを持て

オチコボレという立場は、一端なったら受け入れざるを得ないと思った方がいい。それがいやなら、始めっから慎重に世間多数の態度で、多数意見に従うべきだ。常に世間の様子をうかがい、KY=空気が読めない、などと云われないようにすべきだ。 オレは空気を…

①就職試験の受験法を孫に告げる

おじいちゃんが、「仕事って何が自分にむいているか、分からんもんや」といっていた。「どんな仕事でも面白いかも知れん、好きになれるかも知れん、と考えて続けてみることがコツだよ」といっていた。「おじいちゃんはオチコボレだったが、それでもなんとか…

8 都城−ついに、気になっていた地名が出てきた ブランド牛肉の不思議

「都城農協」と「青森県経済連」については、畜産に熱心だという強い印象がある。 印象は強いが、なにぶん子供の頃のことかも知れないので、細部の記憶は定かではない。とにかく印象で書く。「不思議5」に書いた後の頃、「但馬牛のいいのを、都城農協と青森…

7 宮崎の種雄牛が問題になっているが

我が家の前のマンさん(万造)家に、種付け雄牛がいた。大柄で気の荒い牛で怖かった。集落のはずれの所に種付け場(ナカツケバといっていた)があって、そこの木枠の中に雌牛を入れて、尻尾を前の方に引っ張って止めておき、それに雄牛が乗っかかるのである…

6 但馬牛の飼育は、農家収入の柱の一つ

たしか、3才牛になった頃からだったと思うが、発情すると種付けをする。オナメ(雌の仔牛)が生まれるとかなりの値段で売れるので、副業としてもなかなか「助かる」のである。コットイ(雄)と十倍ぐらい違ったように思う。オナメは十年余にわたって仔牛を…

6 黒毛和牛の血統の元はほとんど但馬牛だ

2007年の秋、大阪の高級料亭船場吉兆が、「佐賀産の牛肉を但馬牛と偽った」として、テレビや新聞で、毎日たたかれた。その頃別のところで次のように書いた。(但馬出身の私として言うと、そもそも<但馬牛の血統ブランド>の松阪肉、神戸肉、宮崎肉,鹿…

5 私と但馬牛との付き合い

今から65年前の小学4年生の秋に、我が家に雌仔牛がやってきた。まともな百姓ではなかった我が家は、それまで牛(動力)がいなかった。戦後2年目のことだったように思う。 子供は大人社会に口出しできない時代だったので、家がどんな暮らしの基盤を持ってい…

ブランド牛肉の不思議4 いい肉は歯ごたえも、旨味もしっかりしているはずだが

「とける、やわらかい、あまい」と、テレビタレントが喜んでいるような肉は、まがい物の肉である。 最近は、サシが入っていればヨイ肉とされているようだが、口に入れて溶けるようなものはまともな肉ではない。サシが大粒で、油が濃い過ぎる。もともと良い肉…

ブランド牛肉の不思議3 ブランドのルーツは但馬牛

1985-90年頃、但馬のM町の地域づくりの手伝いをしていた。そこで、「ふる里会員」を募り、地域の特産を送っていた。この企画の立案者でもあったので、私も会員になって、特産品を送ってもらっていた。年三回で15,000円だった。 このふる里便の目玉は、第三…

ブランド牛肉の不思議2 「百年かけて作った種雄牛」はウソ

宮崎口蹄疫騒動のテレビニュースの中で、表記のような発言をしている人がいた。それを引用して「こんな努力の中で作られた資源が失われる」というようなことを言っている人がいた。 これほどデタラメなことはない。 100年前と言えば、1910年だが、日露戦争が…

宮崎の口蹄疫騒動に一言

「宮崎で、口蹄疫が流行ると、全国の肥育牛農家が困る」という話が出て、ちょっと「おかしい」と思った。 その理由は「宮崎県の肥育農家は、仔牛を生産して、各県の肥育農家に売っているから」と説明されている。 一寸おかしいのではないか。 宮崎ブランドと…

私が子供の頃怖かったもの

以下は友人に送ったメールのコピーなんだが、「怖かったもの」について書いているので引用します。 「むかし貧乏人というものがいた 私の生まれた山間の村にも、コジキが子供を連れて歩いてきた 下のムラからわが部落まで、3〜4キロあった 歩いたら腹が減…

人もうけ物語、オチコボレでも“人もうけ”が出来たらメシは食える

1985年頃だったと思う。関西にいる頃から、障害者福祉などに関心を持っていてので、福岡の知的障害者施設で、パーティーのようなことをやると聞いたので、出かけていった。 自己紹介の順番が回ってきたので「馴染みのない九州に来たので、人もうけに来ま…

オチコボレは「事業仕分け」でなく、「どう生きのびるか」を考える

「事業仕分け」ということが始まったとき、驚いてしまった。 これは安全な暮らしが保証された人の発想だ。自分は安全なのだから、少し削って格好を付けようとする。大蔵省がやってきたシーリングと同じだ。 オチコボレは「食えるかどうか」の不安があるから…

日本人全部がオチコボレになったことがある

全部ではなく、「ほとんど全部」だった。1885年頃から明治維新という体制が出来る1885年まで、武士は失業し、百姓・町人は何のサポートもない人生を生きていた。1885年に、日本銀行の兌換券が確立され、全国と浮いての社会システムが出来た。 60年…