池部良、水木しげる論 私の兄への鎮魂歌

 私は長兄と15才離れている。1983年になくなっている。池辺や水木と同じ方面の、ラバウルで大砲の破片が、上顎左から入って口中を通り、下顎の右へ抜けている。アゴが壊れ、シタが切れているので何も食べることは出来ず、砂糖のかたまりをもらって嘗めながら後退し、八貫目の身体で野戦病院に着いたようなことを言っていた。
 今書いていることも、断片的に聞いたことで、正確かどうか分からない。思い出そうにもほとんど何もしゃべらなかったような気がする。だから、最近水木しげるや、池部良の本を始め、当時のことを書かれてものを読んでいる。
思うことは、「日本軍というのは、陸大を五番までに卒業した人間が賢い」と定義した集団で、独創性(オチコボレ発想やオチコボレ人間を生かすこと)や推理力、判断力を否定し、従来のパターンに当てはめることだけを進めてきた組織だ。現代の日本の政府も全く同じだ。
 長兄は、中支からラバウルへ送られ、負傷除隊して、昭和20年の2月に郷里に、一等兵で帰ってきた(62才没)。次兄は八才年上で、海軍経理学校に少しの間だけ行って、兵長だったかで帰ってきた(59才没)。三兄は19年の暮れ頃だったか、まだ雪は降っていない頃4〜5人の人に並んで出征式に出ていた。まだ15才ぐらいで、背の高さが、並んでいる他の人の肩より少し上ぐらいだったように記憶している。予科練に行って、穴掘りばかりしていて、上から大きい石が落ちてきて、丸刈りになると頭頂右辺りに大きな傷跡があった。55才でなくなった。
 だから私も、60才ぐらいの寿命だろうという気分で生きてきたが、来年の四月には75才になってしまう。三人の兄の想い出は、甥や姪などのためにも書き残しておきたいと思うが、やれるかどうか分からない。
 最近書いたもので云うと、雪の馬ソリの写真が載っている文章は長兄のものだ。「狐のたくらみ」という本を送ってくれたのが次兄である。