「みんなが言っているのに分からんのか」

この言葉は、バブルの前ごろから何度も言われて馬鹿にされた。例えばテクノポリスの計画の時でも、「今計画しても、用地買収が終わって工事も終わるまでには最低10年かかる。工場が出来て、従業員を雇用して、操業するまで、また10年はかかる。今需要があるシリコンは、変わっているかも知れん」というと、「何を言っているんだ。何も分かっていないんだな、」と罵倒された。

1980年頃の話だ。「みんなが言っているのに分からんのか」と言ってテクノポリスプランから外された。通産省も言っている、大蔵も言っている、学者も言っている、マスコミの言っている「これからはシリコン産業に時代だということが分からんのか」「こんなことが分からんのにコンサルが出来るのか」と言って委託契約を切られた。

常識をみんながわきまえているとは限らない。私は平凡常識教なので、みんなが一斉の狂いだすと馬鹿にされた。

テクノポリス計画な携わったころのエッセイを以下に載せる。

老僧は「私のこの寺の住職の歴史は

      “過疎との戦いの歴史”でした」といった 

 【解題】全国で1~2カ所のつもりで、1980年に「テクノポリス」という開発が発表されると、日本中の府県が陳情を始めた。それ以前の75年頃、不動産会社やゼネコンが、全国的に土地を買いあさっていたが、オイルショックのあとで開発の見込みが無く困っていた。日本の技術立国の拠点として起案されたプロジェクトが、塩ズケ用地の活用先にねらわれたのである。私の担当した西播磨の土地も、急峻な山地が大半で、ここに書いた万勝院という寺も、350メートルぐらいの山頂にあった。それが地域の中心部であり、どうして話を進めたらいいのか困っていた。なお、コンセプトについて役所の担当の方と意見が合わなくて困った。「アメリカはシリコン産業がはやっている。シリコン団地にする」という方針を命じられるのだが、「それでは計画段階で陳腐化する。10年のオープン時や、20年以降の活用時を考えて、文系やデザイン系の大学を入れた方が……」といって、「全くアメリカの事情が分かっていない」と馬鹿にされた。従って、万勝院の老住職との話の道筋をつけたぐらいでクビになった。以下の話は、20年後に再訪したときに書いた。(よかネットNO51号 2001.5)

 

■この頃、クリーン・複合汚染・省エネ・定住構想などがテーマになり、大規模開発一辺倒ではなくなっていた

 1981年の秋頃だったかと思う。私は西播磨テクノポリスの、基本構想づくりへの取り組み方について迷っていた。

 テクノポリスという事業は、全国で2~3カ所のつもりが、各県からの誘致合戦になっていた。社会風潮は、オイルショックを受けて「自然を大切に」という気分になっていたが、地方自治体はまだまだ開発指向が強かった。今でも言えることではあるが、当時はもっと地方自治体とマスコミは離れていた。開発面積が2,000ヘクタールを超す事業ということになれば、いずれ世論に対する対応も必要になると考えていた。

 開発地区の中心辺りに、兵庫名勝百選とかになっている“ボタン寺”があるのが気がかりだった。現地の町役場に行った時に、私が最初に聞いたのもその事だった。確か「うるさい住職がいる」くらいのことしか言われなかったように思う。「あの寺が、このプロジェクトにどんな態度をとられるかが、気になりませんか」といってみたが、誰も反応しなかった。

 私は丁度その頃、大阪で取り組んでいた都市再開発事業の、権利調整が一段落した頃であった。その事業は300戸のクリアランス(除却)を伴って、900件近い権利数があった。それからみると、面積が2,000ヘクタールといっても、合意形成の対象としては大した数ではないのかも知れないが、それでも中心に名勝があるというのは気がかりなことではある。

写真説明、写真のところに付けられないので、上から並べた

この左手前にあるのがボタン。この左側から奥へボタンの花がびっしり咲く

老僧の話を聞いた本堂。もちろん、こんなに手入れはされていなかったように思う。

万勝院の入口の佇まい。昔はもっと寂しかったように思う。

 役場が問題を捉えていないのなら、私の最初の仕事は、そのボタン寺の住職の会うことだなと考え、地元の役場の担当の方にお願いして、住職に会えるようにコンタクトを取っていただいた。

 約束の日、かなり緊張して役場に出かけた。もちろん変に刺激的な状況になってはまずいので、役場の担当の人と2~3人で会うつもりである。ところが、役場には十数人の人達がいた。「今日は何か?」と尋ねたところ、「万勝院に行くんでしょう」と返事が返ってきた。「全部で?」、「そうです」となって、唸ってしまった。

 このクライアントの皆様方とは、ほとんどは初対面で、担当の人とも二度目だった。ボタン寺の環境問題になりかねないことを話し合うために、気むずかしいといわれている住職との初対面の対話には、そぐわない状況である。「帰ってくれ」ともいえず数台の車に大部隊が分乗して出かけた。

■老住職は戦前からの、地域づくりの先輩だった 

 小さな寺だった。庫裏とつながった広い部屋に、十数人が正面を向いて待っていると、老住職が奥さんに支えられるようにして、前屈みで、小さい歩幅で、というよりその一歩はフットサイズ以下のあゆみで、出て来られた。私はいよいよ緊張した。その足取りを見ながら、「こんな大勢で来るんではなかった」と後悔していた。正面にソッと座られて、こっちを向いて「……」という状況になった。

 私はもう腹をくくっていた。とにかく、まともに話をしようと思って「私達は、地方の科学技術を進めて、産業振興を図ろうとするテクノポリスという事業の、基本構想を作ろうとしています。ついてはその計画地域の中心にある、万勝院のご住職の意見を伺うのが第一番だと考えて、ここに伺いました」と言った。ややあって、最初に出た言葉が「私のこの寺の住職の歴史は“過疎との戦い”の歴史でした」である。一瞬、私も「……」となったが、次に「それはまたどういうことですか」と言っていた。ここで私の緊張は解けた。このあとは住職の話の聞き上手になればいいのだ。以下、かいつまんで紹介する。

■ひとりで牡丹を植えて、牡丹の名所をつくろうと思った

 ここの住職になったのは昭和元年で26才の時だった。戦後、農地解放以後この寺の周辺には、20戸足らずの農家があったが、高地でもあり(標高300~350mぐらい。そのため抑制栽培になっている)、気温が低いのでうまくいかなかった。一度サヤエンドウを作らせて神戸の市場にもっていったところ、これならいくらでも持って来てくれと言われた。平地のサヤエンドウが出なくなった頃に持って行ったからで、今で言う抑制栽培になっていたのである。しかし、なかなか農作物がうまく穫れなかった。富有柿もやったし、いろいろな作物を作ったが、だんだん戸数は減っていった。観光で人を呼ぼうと思って、紅葉を植えさせようとしたが、ついてくる人は少なく、うまくいかなかった。

 農作物はうまく穫れず、農家は減って、過疎地になっていった。それでもめげないのがこの住職の本領なのだが、ひとりで牡丹を植えていった。それは昭和30年ごろのことである。もともと牡丹は少しあったらしいが、35年ごろになるとかなりの牡丹が見られるようになり、ボタン寺の趣を呈し始めていた。

 住職は、新聞社などへのパブリシティーに熱心で、いつも記者達が牡丹を見に来ていて、いっぱい飲んだりしていた。その極め付きの話がある。

 「ほとんど誰もフォローしてくれなかったが、なんとか名所にしようと思っていたところ、読売新聞の“兵庫名所百選”のコンテストがあった。これになんとか選ばれたいと思い、自分ではがきを沢山買ってきて、知り合いを訪ねて、万勝院への投票を頼んで回ったのです。」

 ボタン寺と同時に、精進料理も始めた。

こんな話を聞き、いろいろな地域づくりに取り組んできた私の話もし、かなり親しみを感じるようになって、「今後もご意見を伺いたい」という話で終わって、寺を辞した。

■この住職は、なぜか近隣からの評判が極めて悪かったが……

 先ずは、友好的に話が終わって、一安心というところだったが、地元の役場での評判は良くなかった。その原因の大半は「タダみたいな材料(野の草や畑の野菜)の料理で6,000円も取る」という精進料理にあった。私がいつも、「いやあ、それがいいんですよ」言っていると、こんな話がでてきた。

 「実はこんな話があります。万勝院の麓の村(集落)出身の人が神戸にいましてね。次男なんですが……」といって、話してくれた。

 その次男の人が、町内会の体育振興会かなんかの、年度納めの“ツアー兼お食事会”の行き先に、万勝院とその精進料理を奨めたことがある。経緯は毎年同じような所ばかりになるので、どこか変わった所にということになったのだが、なかなかいい所も思いつかず、会議がもたついていた。つい「私の里で、精進料理を食べさせる寺がある」といったところ、皆が「それがいい」ということになり、決めてしまった。そのことを里の兄に連絡したところ、兄から「それはえらいことになったな、あの寺はろくなものも食べさせずに、高い金を取るので、近在では評判がひどく悪い。みなさんに言って場所を変更してもらえ。こんな酷いところを紹介したら、おまえはその街に住んでおられなくなるぞ。」と言われた。弟さんは驚いて、町内会の人に「うっかり評判も確かめずに、精進料理の話を出してしまったが、どうも酷いところらしいので、変更して欲しい」と申し入れた。「気にせずに一応行くことにしよう。もし悪かっても、決してあなたの責任ではない。みんな行き先に困っていたんですから」ということで、みんなして出かけた。

 結局は、自然も豊かで、精進料理もおいしく、大喜びで、「毎年ここに」という話も出たくらいだった。

 田舎の人は、買ったものでないと、もてなしにならないように思う人がいるが、その里のモノの方が喜ばれた、という話である。住職は、こんな精進料理を、昭和30年代から始めていたのである。

■二十年ぶりに万勝院を訪ねてみた

 去年、二十年ぶりに訪ねてみた。テクノポリスは放射光施設もできて、動き出していた。

 テクノポリスの計画についてふれると、私の仕事は一年だけで、二年目にクビになってしまった。コンセプトについて県庁の人と意見が合わなかったからである。私は事業ができるまでにかなりの期間がいるので、「今からシリコンでもないのではないか、もっとソフトな分野に、大学も文系にも焦点を合わせるぐらいでないと」などと言ったので、逆鱗に触れて外されてしまった。担当の方に「本省(通産省)が、これからはシリコン産業だといっているのに、全く勉強していない」と言われて落第となった。反論まではしなかったと思うが、「自分の思っていることを言う」という欠点は、昔からも今も治っていない。

 そんなわけで、二十年ぶりの再訪であった。万勝院への道はクルマが一台やっと通れるくらいで、テクノポリスの開発事業とは関わりが無かったように見えた。本当のところ、私の気持ちは、このような精進料理を食べさせるボタン寺は、テクノポリスにとって好ましいものだと思っていた。誰にも聞かなかったが、テクノポリスの計画と住職の考えは合わなかった(もしかしてケンカでもした)のかも知れないとも思ったりした。

 今の住職(新見知章さん)にお会いした。先住の養子だとおっしゃった。老住職は、昭和62(1987)年に亡くなっておられた。私のお会いした5~6年後のことである。昭和元年に26才だったということは、1901年のお生まれだと思う。

 この寺は、もともと八か寺三十三坊あったところで、池田光政の寄進になる広大な荘園を持っていたが、檀家ではなく小作だったので、戦後の農地解放で農地はなくなった。戦後は経済的にも大変だったようだ。老住職が農業に熱心だった理由は、戦前の農業会長(今の農協の組合長)をしていたからで、明石農試から米の作り方なども聞いてきて農家に教えたりしていた。

 老住職の評判が悪かった意味を、もうひとつ見つけた。先述の通り、ボタン園を育てたのだが、ここには5万人/年も来ているといわれていた。本当のところは1万人未満だったらしいが、入場料を一人500円取っている。それに駐車場代もある。料理も高い。「欲深い」と思われたのだと思う。実際の所は、「ボタン園の手入れの人夫賃と、駐車場のアルバイト代が要って、武家の商法だったですよ。ただ、会計は、税務署に教えられて、ボタン園と料理は有限会社にしていました」ということである。

 もう一度会いたい老僧だった。「テクノの人が食事をさせたいといった時、ことわったりしていた」らしいが、都合がつかなかったのか、相性が悪かったのか。

 二十年前の思い出である。去年万勝院で、「南無阿弥陀仏」といってきたが、もう一度「合掌」。

 

 

ZENTANBUSというロゴ

このロゴを、神戸に震災の見舞いに行かれた天皇のテレビ放送で見て、驚いた。私が小学生の頃、毎晩このバスが来て一泊していた。以下はその頃の話

 

バスと私のお伽噺・夜の闇が怖いという運転手さん 

わがふる里は、標高三五〇メートルの盆地(村全体で300余戸・1200~300の人口)で、私の家は盆地の取っつきのムラ(集落)の真ん中あたりだった。そんなわけで、駅のある町から上がってくるバスの終点のバス停になっていた。

バスの最終は午後8時ごろで、運転手さんが我が家の離れに泊まった。翌朝六時か六時半ごろ始発バスとして下っていくのだった。

戦争がたけなわになってくると、ガソリンはもとより木炭も使えなくなり、木材を握りコブシ大ぐらいの大きさに切り割りしたものを、バスの後ろの大きな窯に入れて、木ガスで走っていた。夏の間は、朝になるとその薪に火をつけ大きな窯の横についた扇風機のようなものを回して火力を付けた。私は運転手さんと親しいので、それを回すことの手伝いをさせてもらえた。これが、仲間内ではかなり得意なことであった。

さらに秋になって朝の気温が下がると、そのようなやり方ではエンジンがかからなくなった。盆地の入ってくるところが小高くなっているので、そこまでバスをもっていって路肩に止めておいて、“転がし掛け”という方法で動かした。

書いていると思いだしたのだが、安枝さんという方だった。夜、最終のバスが着いて乗客が下りると、安枝さんが「こんばんは」と云って我が家に来られ、子供の私がバスに乗せてもらって峠まで行き、そこから二人で歩いて、話をしながら家へ帰るという日々だった。

ある時、安枝さんが自分の時計を見せ、「これはどう読む」と聞いた。「セイコ?かな」というと、「英語が読めるんだな」と云った。セイコーの時計だったのだ。少なくともローマ字が少し読めたということは戦後の5年生の頃だったかもしれん。その頃まで木ガス車か木炭車が走っていたことになる。

わが人生で英語力が最高だったころの話。

“同義反復は何物をも変ええないし、何物をも産みえない”

 この言葉は、変に記憶に残っている。今から60年以上前の、私が20才頃に買って読んだ本のサルトルの言葉だ。もちろん本を買うようなゆとりのある頃ではない。スターリン批判がされだした頃、悩んでいて買ったのだと思う。

 この頃平成の30年という話が多い中で、「リスクを取って変革を目指すものがいなかった時代」として、記憶のとどめようという話はほとんどない。

平成の30年 週刊新潮4月18日号、最後のページ

 この時代を最も適確に表現しているのが、西原理恵子の漫画

  明治の人が頑張って、

  大正が暴れる君、

  昭和が働いて、

  平成がバカ踊り

この表現が、今の私の気分にピッタリ

ボクの身体には、全人類が生きている

ボクの身体には全人類が生きている
 ボクの身体には全宇宙が生きている
ボクの一日には、昨日までの全人類のチエが詰まっている
   今日の一日に、全宇宙の歴史が詰まっている

ニューヨークのラガーディア空港から飛び立った飛行機が、
バードストライクによって飛行不能に陥った時、
パイロットは、ハドソン川に不時着水することに決めた
その瞬間、彼は多くの人たちが彼を励ましてくれていることに気付いた

彼は次のように語っている。

「私の師匠たち、そして愛する者たち――私を教え、励まし、
そして将来性を認めてくれた人たちが、様々な形で
あの1549便のコックピットの中に、私とともにいた。

エンジンが二つとも止まった恐ろしい状況だったが、
私には多くの人々が授けてくれた教訓があり、
そのお蔭でなんとか対処することが出来た。
クック氏の教えは、あの約5分間のフライトの中でも生きていたのだ。

……やっと気づいた。ハドソン川に下りた道程は
ラガーディア空港から始まったのではない。
その何十年も前に始まっていたのだ。」

これと同じことが、私の今日の一日に詰まっている。
 朝起きて歯を磨く……これは何時頃から始まった知恵だろう
  オニギリを食べる、この米はどれだけの人の工夫で栽培されたのだろう
   何十年も前に始まっていたのだ

今日一日を生きるために、どれだけに知恵のカタマリがいるのか、
 父母やジイサン、バアサンだけでなく、ずっと以前の先祖の知恵
  隣に住んでいた人たちの先祖、同じ村の人たちの先祖。

何百年も前に始まっていたのだ  
今年、いろいろなモノを食べ、いろいろなことで楽しみ
 学校で学び、マチで学び、ヤマで学び、鍛えた。
   これは何千年も前から続いてきたのだ

人間って、結局チエの受け継ぎのウマイ奴らだ
 簡単に言うと、知恵の駅伝だ。
  駅伝は一人が100パーセントで、全員で100パーセントだ。
   どこかで途切れたら駅伝は無効になる。手紙やモノが届かないのだ。

その受け継ぎのどこかが違っていたら、
 ボクの先祖のどこかが違っていたら、ボクはいない。
ある年、飢饉が起こっていたら、わが先祖は途切れている。
ボクが今生きているのはどんな偶然なのか、

ボクも次に何かを繋ごう。人類の一人のメンバーとして
ボクも駅伝のランナーなんだから

ボクの知っていること・知識や工夫について、
それを受け継いだ途中の誰かが故障していたら繋がっていない。
  もしかすると、僕は何もわからないデクノボウなのだ。
   私に知恵を受け継いでくれた皆さんありがとう


「ボクの身体には、全人類が生きていて、仮説─実行を繰り返している」

ボクの身体には全人類が生きている
 ボクの身体には全宇宙が生きている
ボクの一日には、昨日までの全人類のチエが詰まっている
   今日の一日に、全宇宙の歴史が詰まっている

ニューヨークのラガーディア空港から飛び立った飛行機が、
バードストライクによって飛行不能に陥った時、
パイロットは、ハドソン川に不時着水することに決めた
その瞬間、彼は多くの人たちが彼を励ましてくれていることに気付いた

彼は次のように語っている。

「私の師匠たち、そして愛する者たち――私を教え、励まし、
そして将来性を認めてくれた人たちが、様々な形で
あの1549便のコックピットの中に、私とともにいた。

エンジンが二つとも止まった恐ろしい状況だったが、
私には多くの人々が授けてくれた教訓があり、
そのお蔭でなんとか対処することが出来た。
クック氏の教えは、あの約5分間のフライトの中でも生きていたのだ。

……やっと気づいた。ハドソン川に下りた道程は
ラガーディア空港から始まったのではない。
その何十年も前に始まっていたのだ。」

これと同じことが、私の今日の一日に詰まっている。
 朝起きて歯を磨く……これは何時頃から始まった知恵だろう
  オニギリを食べる、この米はどれだけの人の工夫で栽培されたのだろう
   何十年も前に始まっていたのだ

今日一日を生きるために、どれだけに知恵のカタマリがいるのか、
 父母やジイサン、バアサンだけでなく、ずっと以前の先祖の知恵
  隣に住んでいた人たちの先祖、同じ村の人たちの先祖。

何百年も前に始まっていたのだ  
今年、いろいろなモノを食べ、いろいろなことで楽しみ
 学校で学び、マチで学び、ヤマで学び、鍛えた。
   これは何千年も前から続いてきたのだ

人間って、結局チエの受け継ぎのウマイ奴らだ
 簡単に言うと、知恵の駅伝だ。
  駅伝は一人が100パーセントで、全員で100パーセントだ。
   どこかで途切れたら駅伝は無効になる。手紙やモノが届かないのだ。

その受け継ぎのどこかが違っていたら、
 ボクの先祖のどこかが違っていたら、ボクはいない。
ある年、飢饉が起こっていたら、わが先祖は途切れている。
ボクが今生きているのはどんな偶然なのか、

ボクも次に何かを繋ごう。人類の一人のメンバーとして
ボクも駅伝のランナーなんだから

ボクの知っていること・知識や工夫について、
それを受け継いだ途中の誰かが故障していたら繋がっていない。
  もしかすると、僕は何もわからないデクノボウなのだ。
   私に知恵を受け継いでくれた皆さんありがとう