桜島、肥薩線、人吉

孫に「ボーツ」とした時間を過ごす人になってほしいと思っている。ゲームをしている時間は、何か追われているように見える。
私は、子供のころ母親の手伝いをしている時、別のことを考えてしまってボンヤリとしていることが多かったようだ。と云うのは、母親に「ホイ、ソレ、コリャ手がとまっとるぞ」「目を覚ませ」などとよく言われたからだ。どうせ、大したことではないが、何かを考え込んでしまっていたのだ。もちろん眠ってはいない。
孫と桜島に行った。1914.1.10の桜島大噴火で、埋まった鳥居や住まいの門柱(頭が少し見える)があった。
    
半減したとはいえ、今でもこの島に3000人ぐらい住んでいるということだ。今は鹿児島市の合併されてしまっている。多くの人がフェリーで鹿児島に通勤している。桜島大根と桜島湖未完の農業では暮らせないが、ハマチなどの養殖が盛んだ。
肥薩線(明治42年11月開通、1909年)の「しんぺい号」に乗った。一番高いトンネルを出たところの駅の標高が536.9メートルで、下った人吉駅は106.6メートルだ。大ループ線路やスイッチバックレールで貨物列車や乗用列車を通していたのだ。こんなところに鉄道を通した理由は、東シナ海側だと艦砲射撃を受ける危険があるから軍事輸送になじまないからだ。
このころまでの軍人は、自我関与をしながら物事を決めていたので、ロジスティックに対する配慮が行き届いている。
今日は敗戦の翌日だが、1945年8月15日に自殺した海軍や陸軍の大臣がいたそうな。とことんプライドと勇気のない奴だ。命を懸けるなら、沖縄決戦を防ぐことや、本土空襲から国民の命を守ることに心が向かないのか。
以前にふれた「帝王学山本七平著で知ったのだが、平凡な考え方のできる軍人もいたようだ。多田駿参謀次長は「中国からの無条件撤兵」を主張していたようだ。理由は簡単だ、「相手は海軍がないから追撃はされず、日本の国益は何一つ損ずることはない。目的の明らかでない作戦を4年も継続し、いつ終わるか見当もつかず、何のためにやっているか政治目的もはっきりしない」と云う状態はいつでも止めることができたのだ。残念ながら東条英機に嫌われ退役させられて農業をしていたらしい。
日本は、小賢い東条などと云う係長級の秀才に、乗っ取られていたのだ。国を守るという任務に命を懸けず、敗戦後に自決するような、小心翼々とした大臣連中は大嫌いだ。靖国神社の多くの戦死者に祈りをささげる気持ちはあり、以前にお参りしているが、この小心翼々連中が同じように祀られているのには納得がいかない。
どうも、この季節になると、腹が立ってかなわん。