じねん・日本教・多神教・天皇制    2016.08.20

高校時代、マルクスかぶれ、左翼かぶれだったので天皇制反対だった。古事記日本書紀は非科学的だからバカにしなければならないという空気に染まっていた。古事記日本書紀を読まず、解説だけ聞いて、科学教信者にしこまれていた。

しかしある時(30歳ぐらいの頃)、“伝説”を非科学的と云ってバカにすることに疑問を持った。世界中、どの国でも昔のことは伝説ではないのか、「科学的」と言うことは、「伝説を科学的に学ぶこと」ではないのか、と考えるようになった。近視眼的に実験できるようなことだけを科学的と云う、非科学主義者が多いことに気付いた。

そして日本書記を開いていて「なんだこりゃ」と気づいてうれしくなった。実に「いい加減な」書物なのだ。私は国民学校1年生から教育を受けているので、「真理は一つ絶対だ」と云う態度が正しい学問だということからスタートしている。ところが、日本書紀は、最初の1節の「まだ天地が分かれておらず、フニャフニャしていた……」という記述の項目から、「一書に云う……」という別説が6項目も続く。

次の節も「一書に云う……」という項目があり、多いところでは10項目以上が引用されている。「こりゃあ、マルクスの“すべてを疑え”の上をいっているじゃあないか」と思い、千年以上前の歴史書で、これほど近代科学主義の感覚に合っているものは、世界中にないぞ、と思うことになった。

この頃から、マルクスの「すべてを疑え」が、一層好きになり、左翼離れが始まった。

 

20190906付け加え 

関西に住んでいると伝統というものが意外に科学的根拠になりうることを感じる。もちろん関西と限ることではない。

いくらか歴史好きだったので、発掘調査の記事などはよく読んでいた。ところが気になることがあった。調査の記事のシッポの辺りの5行ほどの記事があって、「古老の話ではこの遺跡のことは聞き伝えがあった」と書かれることが多かった。

そういうことが何度もあると、伝説って「しっかりしているんだな」と思うようになっていった。

そんな気分の中で日本書記の「一書に云う」に出会った。「この日本はすごいな」と思う気になって当然だ。