知的労働経済学はドラッカー

「段取り」が仕事の能率と出来栄えを左右することは、子供のころから躾けられていた。毎朝掃除の分担が決まっていて、兄や姉から言われながら掃除をしていた。畑で農作業を手伝うときも、丁寧にするようにしつけられていた。
高校に行くようになったころ、重農主義重商主義、資本主義などを世界史の時間で学んだ。2〜3年になると「経済学教科書」という本を持つのがファッションのような気分だった。一応第一分冊は勉強会に行ったりして読んだ。とにかく批判的に読むなどと云う感覚はなく、わかろうという気分だったから、労働と云われていることと仕事は別物だった。60年以上前の話だ。
その後マルクスもかじるようになって、「死んだ労働、対象化された労働」には共感した。しかし、段取りのことが書かれていないような気がしていた。労働が受け身の感覚で、自分の意志で仕事をするという考えが薄いように思った。
26〜7歳のころ倒産も経験して、みんなの共同意思や、気配り、手順などが重要なことを悟った。その頃ドラッカーを読みだして、経済学の最重要課題だと思ったが、そういう議論にならないのが不思議だった。経済学と云うと、役に立つ働き=価値を生む労働とは無縁な世界のように思う。
「仕事学」とか「働き学」がないような気がする。