韓国の儒教と公概念のダブルスタンダード

 韓国で、また大統領批判が起こっている。理由は公的権限を私物化したということになっている。しかし韓国のモラル基準では、役人として出世した場合に親族のオジサンなどが、「仕事を回せ」などと云ってきた時“それを拒否”しにくいと聞いた。もしそれを拒否したら身近な人たちの、もっと大きな批判にさらされるに違いない。表に直接あらわさなくても、韓国社会の内部にある基準で、それは許されないという批判をされるだろう。
 受験シーズンになると、時間に遅れるという不安で、警察のパトカーが送って行っている。あの風景は「国民総タカリ」の象徴だ。
 大統領といえども、相談する人は必要だ。もし相談だけして一切の謝礼・便宜を図らなかった時には、国民はどういうのだろう。新聞は建前で通すかもしれないが、酒場では「こんな冷たいヤツが大統領では、韓国もオシマイダ」ぐらいのことになりかねない。
 以前に、「公共と親族のどちらをモラルの上で重視するか」について、一般市民のモラル基準からみると、前者に比重があると聞いたことがある。受験生をパトカーで運ぶなどということは、わが国では到底考えられない。それが韓国では正当化されていることから見て、「ダブルスタンダード国」だと考えられる。
 とはいえ、わが日本も、今やそれをしのぐ「身勝手国」になっている。その先導はマスコミだ。福祉を言う場合は増税をセットで云うべきだ。現在の自分は、先祖・過去の人たち・人類の働きや知恵の御かげで生かされている。それなら、相続時に全部と言わず、8〜9割ぐらいは税金として払ってもいいと思う。しかしそうなると、それにタカル役人が急増するかもしれない。