80歳の小学生の同窓会(11月3日)

 一瞬にして、みんなが10歳ぐらいの子供の気分になっていた。我々の同窓会は、国民学校から小学校、新制中学校、もう一つ以前の幼稚園まであって、10年間一緒に過ごしていた。70年たった今でも、瞬間的に“チャン”仲間になる。この頃の10年間の仲間というものは不思議な感覚で、年齢差がないためか兄妹よりも気分の隔てがない。
 みんな80歳なのだが、男も女も小学生のころの面影を見ることができる。
 高校の同窓会や大学の友人の誘いもあるが、行く気がしない。なぜそんなに元の会社での部長だったとか、今顧問をしているだとか言いたいのだろう。ところがこの80歳の小学生は、わけ隔てがないし、肩書を言いたがる人もありはしない。
この「10年間の同窓会」の話をすると、うらやましがる友人が多い。我々の時代は戦争もあったので、疎開や転勤による転校で、何回も小学校を変わっている人がいる。それに比べると、80歳になっても小学生仲間がいるという幸運はありがたい。

 幼稚園は小学校の音楽室だった。小学校とは別の入り口から入れたような気がする。30代ぐらいの女の先生が、小学の音楽兼任でおられた。
 小学校3年の時の夏、戦争が終わった。2〜3年生の頃のビンタが怖かった話は出たが、あまり弾まなかった。その頃のことで、敗戦の日の記憶を聞きたいと思ったが、そこまで話す時間が足りないようだった。
 今年の秋、皇后陛下の誕生日だというニュースが、テレビに流れた。その時天皇陛下が使っておられたという教科書が映っていた。「サイタ サイタ サクラガサイタ」という我々と同じ教科書だった。次いで、「墨塗り」をした教科書も映った。「へえ、天皇陛下も同じようにスミヌリをしたんだ」と思った。

 一応、当時の生徒数は31人ということになっている。戦争中の疎開で少し増えていたが、元の人数から辿ると、亡くなった人が14人、出席が8人、体調が悪かったり都合がつかなかったりして欠席した人が残りだ。生き残っている仲間の半分が出席したということだ。
 当時の先生は、中学卒の代用教員がほとんどだった。y先生は弟を二人連れて養っていた。今でも事情は分からないが、大変貧乏だった。昔を思い出して「母親に言われて、朝暗いうちにジャガイモをリュックサックに入れて持って行った」という話をすると、「私も、持って行ったことがある」という話が出た。
 みんな貧乏だった。あらゆるものが配給だった。ゴム長靴も、ズックの運動靴も、31人に対して1~2人にしか当たらなかった。いつも籤運の強い者に当たったような気がする。非常な不運の時代だったかもしれないが、子供の頃に試練を与えられたのは、好かったかもしれない。瞬間的に“チャン”仲間になる幸運も与えてくれたのだから。

 翌朝、我々のシンボルの山である神鍋山に登ろうという話が出たが、かなりの雨が降って来たのであきらめた。昼前には雨が上がって好天になったので、一人で神鍋山に登り、別れを告げたような気になった。