<自分の適職を見つけることなんて可能なのか>

私は積極的ではなく受け身な性格である。巡ってきたときの役割や運命を受け入れて、一応「逃げるわけにはいかないなら努力をしよう」といった感じで仕事をしてきた。自信があったわけではないが、それで何とか会社の再建が出来たり、赤字体質の会社の転換が出来たりした。

若い人に言いたいのは、自分の「適職を見つけた気になれる人」なんて、ほとんど居ないだろうということだ。死の間際にでも分かればいい。目標設定を「適職を見つける」に置くのは、適切な態度ではない。なぜならば、適職かどうかの検証を“何時、どんな方法でするのか。死ぬまでにすることは可能なのか”が分かっている訳ではない。私の目標設定は「食っていく」ということだった。二日目にクビになった仕事は営業職だったが、とにかくやってみようという気分でいた。

クビになったあとで、友人が紹介してくれたのは編集屋だった。とにかく「食っていく」ベースが出来て大安心だった。最近その友人のところへ焼酎を持って尋ねた。

私は自分の適職なんて分からないが、一度も転職をしたことがない。最初が編集屋で、次は土建屋の番頭(現場監督など)をした。二年ほどして、子供が二人いる四人家族で、計画屋だかコーディネーターだかという、まだ世間で認知されていない商売に変わった。普通の感覚でいうと、こういう態度を無謀という。しかし、この会社で食わねばならんから、社会保険などを入れて、続くように努力したことは、オチコボレ自覚の項で述べた。

よく考えてみると、ずっとコーディネーターという商売の枠の中にいたことになる。編集屋も土建屋も計画屋も、人の協力を得て、物や考えを集め、組み立ててまとめ上げて「仕事にしていく」ことに替わりはない。

九州に来てしばらくした頃、有名教授から「どんな仕事をしてきたのですか」と聞かれた時、「編集屋をしたり、土建屋をしたりだったが、考えてみるとコーディネーターから一度も出ていない」と返事をした。すると「コーディネーターで一番気をつけたことはなんですか」と聞かれた。「たくさんの問題や人々の調整をするわけですから、人によってだとか、物によってだとかの差をつけないことと、人の話をよく聞くということでしょうかね」と答えた。つまり、あまりにも気働きをすると言うよりは、淡々と聞いていくことだと思う。

こんな次第だから、私の適職論などはいい加減だ。つまるところ、就職の時の態度なんてアソビ半分でいいのだ。子供が遊ぶときに、「一番楽しいアソビは何か」なんて、遊ばずに考えている子供がいたら、頭の神経がおかしくなっている。とにかく、自分にめぐってきた仕事を、面白おかしくやるにはどうすればいいのかと考えて、仲間と協力していくしかない。

話が変わるが、編集屋・土建屋を経て10年か15年すると、「地域計画・まちづくり・農村計画・コーディネーター」なんぞという商売の経営者になっていた。もともと、こんな商売があることさえ想像したこともなかったのに。

そのうちに、私にとってかなり苦手な、採用する側に回ってしまった。そこで私のとった態度というのは、私どもの会社を“若い人たちに採用していただく”側にまわることだった。来きてくれた若い人を前にして、我々の仕事はこういう点でおもしろいが、こういうところはつらい等、面接時間の2/3以上は私の側の説明だったと思っている。「この会社はイヤなことはしなくていいんだ」「仕事はしなくても給料がほしいなら、払えるうちは払うよ」「イヤイヤな態度でした仕事はクライアントに失礼だし、イヤイヤ生きる人間がいるのは気分が良くないから」とか、「おもしろい仕事がしたいんだ」「こんな仕事、好きになれそうですか」などと、延々と尋ねた。そして最後に「自分自身の経営をするのは自分だよ」といった。

こんな無責任な経営者だったので、相手が私の会社を「採用したい」という態度の時は、出来るだけ断らないようにした。もちろん当方の良くないところをたくさん説明して、それでも「やってみる」といえば採用した。

こんなにまで考えても、他人や自分の職業適性を見分けるということは出来ないものだと思った。

挫折、失意の中できつい肉体労働をし、いざとなれば、どんな環境でも“とにかく生きられる”という自信ができた。これはふる里の人たちに包んで頂いたからである。