久しぶりに、若い人たちと話し合った②

対話の後、メールで礼状を送ってくれたので、それに返事を出した。以下がそれだ。

私と対話をしてくれた、大阪アルパックの皆様へ     130620
久しぶりに若い人たちと議論ができて、少しばかり開放感を感じました。議論をすると気分がよくなるということは、自分のやっていることを、確かめる方が安心だという状況だと思う。「定説と云うものは多数者の錯覚だ」と書いている人がいますが、多数意見ほど頼りないものはない。
私は1990年バブルの時などは、“小馬鹿”にされていた(大馬鹿にされるのは我慢ができるということ。このことについては、ホームページotikoboreryu.jpの「時代認識・バブルの頂点でのリゾート」の項に書いている)。
京都の八坂の石段下から100〜150メートルくらい西に「京都現代美術館何必館」と云う小さい美術館がある。梶川さんと云う方(丁稚奉公からたたき上げた美術商)が、思いを込めて作られたところだ。何必館とは、「定説なんぞ必ずしも」と思い続けてきた梶川さんの信念だ。
この美術館の看板作品は、21才の時に出会った、村上華岳の「太子樹下禅那図」である。梶川氏は「この一点の作品によって、自分の生涯を美術のことにかけようと決心した。…… 運命的な邂逅だったとしかいいようがない。そしてそのとき、この作品は、自分のものになるのではないか、という妙な予感と、この作品が傍らにあれば安心して死ねるという思いを持った」と云っている。(よかネット97号のバックナンバー・ホームページにある をみてください)。
私は自分の「思い」で確めることなく、人の言ったことや、書かれていることを取り込んで報告書を作ることが嫌いだった。大阪事務所で、再開発事業がピークになる前は、京都で、よく議論していた。当時よく言っていたのは、「不等価交換をするな=もらっているお金分の知的生産を納入しているか」とか、「自我関与をしているか、客観的に流しているのではないか」などだ。
 自我関与していないということは、心がこもらないということだ。25~6歳の頃、編集屋兼コピーライターのような、あるいは広告写真のディレクターのような仕事をしていた。つまり、訳の分からん何でも屋だった。その頃職場ではやっていた言葉が、「リコピーライターじゃないのか」と云う辛辣なチェックだった。
20歳の頃よんだサルトルの「スターリン批判?」に、「同じ言葉を繰り返しても、何物をも変えないし、何物をも進めえない」と云う言葉があった。
我々の若いころは、今のような優しい衣にくるんだような、ウソの会話はなかった。
 今の時代は、自立を妨げるような、形ばかりの優しさでくるみながら、何年かかっても返せないような財政赤字を、若い人たちに回すような意地悪社会になっている。みなさん十分用心してください。