天皇制、平成天皇、ハイヒール②

昭和天皇は何となく苦手で、平成天皇に親近感を覚えている。年配層の人は、昭和天皇の存在感の大きさについて特別なものを感じるという人が多いが、私は今の天皇が「平成流」を確立していかねばならないという状況に向かわれた苦労の方が、大変だったと思う。
前の天皇については、敗戦時に国民学校3年生であったとはいえ、女学校を卒業したばかりの先生が担任になり、気合いを入れて気に入らぬ生徒のビンタを張っていた時、その向こうには昭和天皇がおられた。しかし、そんなことは日常のこととして当然のことだったので、それを恨みに思うようなことはなかった。
記憶にあることと云えば、元旦や天長節などの、学校での式典の度に、校長先生が校門のところの奉安殿から“御真影”を捧げ持って講堂の正面に置かれ、その間中、頭を下げ続けねばならなかったことを思い出す。
戦後、天皇陛下のご巡幸があるので、列車で通り過ぎられるのを拝礼するために、駅のある町まで歩いた。ミゾレ交じりの道13キロを往復した。今調べてみると、昭和22年11月27〜30日に鳥取県から島根県を巡幸されたことになっているので、鳥取県へ行かれる少し前に山陰線を通るので、前日の午後だったと思う。駅のホームには入れなかったので、少し離れて線路わきに立っていた。お召列車が少しスピードを落として通って行った。頭を少し下げ続けねばならんので、本来は何も見ないことになっているが、一瞬少し顔を上げてみた。天皇陛下が一人立っておられたような気がした。13キロの道を歩いた帰った時にはもう夕暮れだったような記憶がある。
平成天皇に親近感を覚えるというわけは、高校時代に山岳部に入っていて、その頃の先輩が学習院で皇太子の同級だと聞いたからだ。その後は、天皇になってどういう風に役割を務められるのだろうかということが、関心の的になった。いつも皇太子のことを、「どういう自分流の天皇スタイル」を務めていかれるのかと云う興味を持っていた。それは同世代の人が、特殊な立場・役割を「国民の納得がいくように創造していく」のかと云う興味だった。
結局誰しも、なにがしかの周辺の共感・納得・合意なしに存在し続けることは出来ない。それが天皇という立場であれば、極めて難しいものになる。神棚に載せておいて、国民一般が近寄れないようにしておきたいと考えている人もいる。また天皇という存在そのものを否定する国民もいる(私も若い頃は天皇制反対だった)。このような中で「国民統合の象徴」とはなにか、どのような日常なのか、どのような国民との対応なのか、どのような対外表現なのか、について前例のない「心と態度=かたち」を作り出さねばならない立場だ。
国民全部がほぼ納得する「スタイル」をどうして作られるのか、天皇制などと云う問題を超えて、現在の欠くことのできない役割をどうして確立していかれるかに関心を持っていた。
この疑問に対して大体の納得を感じたのが、島原普賢岳火砕流の時の見舞いの態度だった。右翼・左翼はともかく、天皇の一挙手一投足に何か言いたがる人がいる中で、膝をついて話すということは、かなりリスキーなことであったと思う。それを極めて日常的な雰囲気で乗り越えられたということに感心した。リスクを冒すということに、日頃から両陛下で話し合われていたことが表れたと思う。この二人の方は、日頃から自分たちの立場に表現に、会話を重ねてこられたと思う。