84歳記念に、昔のことを載せておく、十歳の子供が受けた戦争体験

戦争中は小学三年生から大人扱いだった。一~二年生は子供とされていた。

昭和二〇年の四月、三年生になると家から肥タンゴ持ってきて、二人で一つのタンゴに学校の便所から肥を汲んで、四―五〇〇メートル離れたサツマイモ畑に運んだ。後ろを担ぐと、チャプチャプと揺れた体にもかかった。冬になると三年生から、一時間早く学校へ行って、ストーブをつけて教室を温めておくというストーブ当番が始まった。雪の積もった日などは、朝早く起きてラッセルをして学校に行きストーブを付けた。

高等女学校卒業の十六歳ぐらいの先生が、小学三年の生徒のビンタを張るのは常識だった。きれいで、スマートな先生だったが、エコヒイキも激しかった。体操と勉強のできる子はいいが、家も貧しく、着物も汚れている子に対してはお気に入りの子に殴らせた。ひどい時には、机の間を小走りに通らせ、足を出して転ばせたりした。

当時のわれわれ児童は、これらのことを全くひどいとは思わなかった。私も鈍くさい子供だったので、好かれはしなかったが、ほかの教科は出来たので、一応難を逃れていた。

なんとも思わなかったのになぜ書くのか。それは次に書くことがあったからだ。

 最もひどいショックを受けたのは戦後だ。終戦翌年の四年生の一学期か二学期だったかもしれない。先生全員が「全校自習」にしてサボって映画を見に行った。 

 どのクラスにも早耳情報を仕入れる情報通の子がいるものだが、彼が十二時過ぎに教室の入り口で「オイ、今日は全部自習だぞ。先生はみんなバタコウ(オート三輪のこと)で町に映画を見に行ったぞ」と云った。彼の説明によると、残っているのは小使いの小父さんだけだということだった。

小学生を相手にビンタをふるっていた先生たちが、全員で学校の授業を放棄して、映画をみにいった。これが教師に対する最大の不信感のもとになった。私の戦後の教師像はこれから始まる。

先生は、子供にはビンタを張ったが、自分には真剣ではなかったのだ。私はイジメの原点は軍隊の上官と学校の教師だと思っている。子供同士のイジメは仲間でかばうことができるが、軍人と教師という権力者には、子供も親も逆らうことは出来ない。日本人のリーダーたちは、戦時中の厳しい時に、心から真剣に日本のことを考えていなかったのだ。この真似をしたくない。

戦後五〇年とか七〇年とかいって、韓国などへの謝罪が問題になって久しい。これらは朝日新聞などの虚報・誤報に端を発し、社会党幹部などが中国側に朝日新聞などを見せて「抗議」を要請したものともいわれている。

とはいえ、中国や韓国に「慰安婦南京虐殺事件は、公式に政府がやったものではない」といった(言い訳)をしても、説得力に乏しい。

問題は、身内である日本国民にさえ反省・陳謝・説明をしていないということだ。なぜ七〇年前に、敗戦で終わったような戦争を始めたのか。その「戦争の目標、手段、効果」をどう設定していたのか。どんなマネジメント・プランニングだったのか。どの程度の準備で、何年計画で考えていたのか。これらを含む「反省の国民的合意形成」を図らねばならない。このことを、将来の国民に十分説明し、反省を伝えねばならん。