じねん教・知的労働生産には、平凡常識が第一

*平凡とは、ヒネクレテいない素直な見方ができること。
*常識とは、みんなが当たり前だと思うこと。
このことを前提に我々の暮らしを考えると、①前の世代の人たちに労働の受け継ぎ、知恵の受け継ぎのお蔭、②今生きている自分以外の人の知恵や仕事の産物、を抜きに一日も一秒も生きてはいられないことを感じる。もちろんその中には“有害なモノ”と”人類の生存の役に立つモノ”があるが、それを世代を超えて知恵で見分けてきている。
 朝起きてという前に寝ていた布団やベッドは、自分で作ったものではない。朝飯を食べるには米を作ってくれた人、鍋や炊飯器を作ってくれた人の世話になる。「米を食うと太るからパンを食べる」という人もいるだろうが、これも人の世話になる。電気や水道を作ってくれた先輩や町の人の世話にならずに一分・一秒も過ごせない。この時の先人や隣人の中には日本だけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸、アフリカ大陸、地球上のあらゆる島々が含まれる。
 「そんなことは分かっているよ」「子供でも知っているよ」「常識だよ」という声が聞こえてきそうだ。
しかし、このような価値と加工用といった「役に立つモノ学」であるはずの経済学は、「ペーパーマネーの効率的パクリ方学」になっているように思う。
労働生産性という言葉があるが、アダムスミスや二宮尊徳などの時代には、役に立つ筋肉労働、役に立つ知的労働が、働くということの前提になっていた。私が地位Sな工務店だ働いていた時、住宅の基礎のための溝穴を掘ってくれと云った時、基点から東向きの溝穴を間違えて北向きに掘っていたことがある。これなどは、無駄な作業と地盤の脆弱化をもたらした。
知的労働の場合は、この勘違い率がさらに高い。“仮説”抜きの作業は、ほとんどの場合役に立たない。
最近電通という会社の女性が、残業過多で自殺したという記事が出ている。まさか電通が穴掘りの仕事や、山から材木だしの仕事をしているとは思えない。もし、知的労働をしているとすれば、作業仮説や作業目標を立てるはずだから、時間よりも知的回転率、知的なカン、段取りなどが基本ベースになる。これは時間で測るべきものではない。
この会社の幹部も従業員間、仕事というものに対する視点が狂っているとしか思えない。