日本と中国の賃金格差で、なぜ競争が成り立つのか

「日本経済は落ちこぼれた。中国の追い越された」と云う叫び声が、新聞・テレビ・学者の意見などで日本国中にあふれている。もう一つ、「ものつくり日本が中国に脅かされる、大変だ」とも言っている。
しかしこれは変だ。10倍の人口を使って、総生産で追い越したということだけで、国民一人あたりの所得にすると1/10を少し越したというところだ。つまり、それほど賃金格差があるのに、なぜ日本の産業が決定的な負け方をしないのだろう。日本と云う国は、なぜ一人あたりの生産では、中国の10倍近くも稼げるのか。日本人がそれほど賢いのか、誰かが猛烈に稼いで、普通の日本人に配ってくれているのだろうか。
このことについて、私は日本人の生産性が高いのだろうと思ってきた。
現代社会の仕事は、マルクスが賃労働と云ったころと比べると、腕力労働比率が下がって、知的労働化が進んでいる。いわゆる“土方”でも、私が10代の頃とは違って、腕力はほとんどかけずに、交通整理が二人・土木機械の運転が一人・監督が一人でやっているのを、よく近所で見かける。どこにも筋肉労働らしい様子は見えない。仕事の進捗をチェックする・交通安全に気を配る・機械を運転する、ということは、すべて気配りの仕事だ。
今から50年前、私は編集屋の仕事をしていたが、そこが倒産したために、行場のない、取り残された従業員が、ある会社の社長の援助を得て再建することになった。みんなでよく話し合い協力し合って、「メシを食うようになろう」と努力したら、2〜3倍の仕事量は簡単に達成できた。
また25年ぐらい前、九州の会社が倒産状態になって、その再建のためにやってきた。その時も、従業員は1/2になって、仕事量は2〜3倍になり、品質が格段に上がり、クライアントの評価も高くなった。
知的労働は、日ごろの勉強・相互のサポート・気配りや機転によって、労働生産性は数倍の差が出る。
さて、日本と中国の労働には、このような差があるのだろうか。儒教と自然教プラス仏教の間に、どんな国民性の違いがあるのか。
この謎が少し解けたので書いてみる。
文芸春秋12月号に、「中国人労働者『賃上げ暴動』の内幕」と云うリポートが出ている。それによると「中国での労働コストはいまや日本と同じ水準か、それ以上と考えるべき」だと書かれている。
実際の賃金はワーカークラスで3〜4万程度だが、実際の生産現場では、それぞれの労働者が単能工なので「自動車の生産ラインで、日本ならば5人で行う仕事を、20人で行っていた」と云うようなことが起こる。つまり、家族以外のために、仕事の勉強・サポート・気配りや機転などはしないのだ。オフイスワークの仕事も、「電話を取るのは私の仕事ではない」と云うことになるそうだ。
「労働は苦役である」と云う前提に立っている欧米や儒教国と違う日本は、この四季それぞれの美しさの中で、自然を大切にする神道や仏教の心を生かして、今後の世界史で最も大きい役割を果たすだろう。