50年前のセンチメンタルジャーニー


この旅の想い出は、“タコ”、“夜光虫”、“蚊”である。
50年前の9月の初めにこの辺りで民宿に泊まった。岡山県鷲羽山沖の、象岩のある六口島である。これらの写真は、今年9月5日のものなので、直接関係はない。このおばあさんは、「何とかもう一度六口島に行ってみたい」と思って、ネットで探した六口荘という民宿のおばあさんだ。一応電話をしてみたら「下津井港まで迎えに行って3500円で用意しとく」と云うことだったので、ここで昼食を頼んだ。アクセスは50年前と変わっていない。
50年前の旅の目的は、海外向けの毛織物のPR用印刷物を作る為の準備=写真のロケハンとしてきていた。当時としてはかなり豪華な、生地見本付の写真誌であった。日本のきれいな風景をバックに、男女のモデルがウールのスーツなどを着て、映っていればいいのである。きれいな風景の狙いが瀬戸内海と決まり、その写真の場所きめの出張であった。
初日に、岡山県庁の方に360度展望ができる山とか、将来の工業団地予定地などを案内してもらった後、鷲羽山の下津井港のところで別れた。9月初旬の午後、相棒のS君と二人で「さて今後どうしようか」ということになったのだった。辺りを見ると、20〜30人乗りぐらいの遊覧船があり、ガイドのオッサン(70歳くらいかな)がいた。”遊覧船組合理事”などという肩書のついた名刺を渡して、「乗らないか」という。聞いてみると、もう夏休みも終わったので、誰も乗る人はいないということだ。
「ロケハンなんだから、近辺の島を見ておくのもいいかな」と云うわけで交渉すると、3000円だという。月給が“13800円”という歌が流行ってからそれほど経っていない頃だった。「ちょっと高いかな」と思ったが、「まあ会社の金だし、島を見るのも大切だから」といった気分で、大きな拡声器のついた遊覧船に乗った。
船が出ると途端に、頭が割れるような大きな声がした。何事かと思ってみると、“理事船長殿”がマイクで説明を始めているが、やかましすぎて何も聞き取れない。「二人だけやからマイクはいらんよ」といっても、「これは遊覧船の決まりだから」と言ってやめてくれない。少し船が出たところで、「もう誰も見ていないよ、止めても分からんから」と云って、やっとやめてもらって、隣で説明を聞き始めた。しばらく行くと象の形をした岩のある六口島についた。家は3戸しかないが夏は海水浴客でにぎわっていた、という。
ロケハンなんだから、降りてみる気になって、止めてもらって島に上がった。2〜3人で操業するような漁船にいた、30代ぐらいの人と話した。この島は3戸あって、夏休みまでは海水浴客が多いが、今後は誰も来ないから、漁業をするのだという。「民宿は、やっているんでしょう」というと、「今晩泊まっていけ」という。その気になったら電話をしてくれたら「迎えに行きますけえ」という。「どこまで」、「下津井の乗り場のとこまで」、「ひょっとしたら電話するかもしれませんから」と云って遊覧船に乗った。
もともと岡山ぐらいに泊まるのかな、と思っていたのだが、「電話してみようか」という相談になり、電話した。「一時間ぐらい待ってくれたらそこまで行く」ということになった。船には革靴を履いたままオンブしてもらって乗った。六口島についたときは「もう歩くから」と云って、ズボンをたくし上げ、じゃぶじゃぶと歩いて上がった。
7〜8才、4〜5才くらいの姉弟がいた。
夕方になって「風呂に入ってください」と云われて入りかけたら、「一緒に入る」と云って姉弟が入ってきた。くらい狭い風呂に4人が入り、体中蚊に刺された。上がって部屋に入ると天井の真ん中あたりに弱い明りが点いている。不審そうに眺めていると、「プロパンガスを燃やしているんです」という。部屋の隅を見ると確かに細いガス管のようなものが、天井の真ん中まで伸びている。
本を読めるような明るさではない。食事もよく見えないので、生のタコに驚いた。つまり刺身なのだが、普段は茹でた赤い皮のタコを食べていたので、少し食感が違って「これうまいなあ」と云ってしまった。「何ぼでもありますけえ」と云われて、生簀に取りに行くことになった。家の前の浅瀬に出て、ジャブジャブと海に入りかけて立ち止まった。夜光虫だ。海の表面が波によってギラギラ光っているのだ。そこを歩くと海面が、スゴイ光りようだ。50年経った今でも目蓋に浮かぶ。タコを取って、刺身にしてもらって、さらにビールや酒を飲んだ。
しかしほかにすることがない。「どうされますか」と云われても、「寝るかなあ」ぐらいしか返事の仕様がない。「布団を敷きましょか」と云って、蚊帳の中に布団を敷いてくれた。ボンヤリとしたガス灯をと見上げると、蚊帳の天井部分の中心部に当て継ぎ布があって、一層灯りが届かない。「あれは何ですか」と聞くと「ガスを燃やしている芯がね、長くなると削げて落ちてくるんです。それで焦げて穴が開いてしまって」「え、ガス芯の燃えカスが落ちたんですか」「いや、今日は落ちません」。我々二人はびっくりして、布団を両脇にひいて寝ることにした。
何かものすごく蚊に刺されて目が覚めた。気が付いてみると蚊帳は寝ている我々の顔の上あたりで揺れている。浜風に吹かれて、蚊帳は全く役に立っていないのだ。文句を言っても始まらないが、一応朝食の時に、「蚊帳が頭の上で揺れていてね、体中蚊に刺されましたよ」といったら「あゝ、蚊帳に重石を置くように、と云うことを忘れましたね」。
食事の後しばらくして船で送ってもらって鷲羽山に着いた。「来年から電気が来ます。また来てください」という声に送られて。
50年後の今回は、電気もついていたし、テレビも見ていた。またバカンスという言葉も流行りはじめていなかった50年前とは違って、“超豊かな社会”になっている。夏の海水浴といえばたんに海に泳ぎに行くだけだった時代は、現代社会にはどんな貧乏なところにもない。写真にみられるようなボートを持つのが、普通なのかもしれない。
おばあさんと少し話したが、あの家族ではないようだった。話の中に出てきたもう一戸の都会に出てしまっている家族だったようだ。
50年は長い。しかし十分想い出を楽しむことはできた。