裁判は人間のプロで、プロ裁判官は裁判から手を引け

<共同保育所づくりと裁判関係者の権利意識>
45〜50年ぐらい前のこと、我が家は共働きだったので、預ける場所に困っていた。団地の中で困っている仲間が7〜8家族集まって相談していた。市役所にお願いに行っても「現在あなた方は、何とかしているわけだから“措置に欠ける”状態ではない。保育所を作るのは、“現実に措置に欠ける児童を措置するため”だから、実体がないと説得力がない」と云われていた。
とにかく保育所に預けざるを得ないという状況が見えるようにしなければならないことになった。具体的には誰かの住居を“共同保育所”にしなければならない。つまり親が共同経営者になり、面倒を見てくれる人を探してきて雇用し(お願いして)、各個の家を提供して(現実には夫婦は子供を家に残して、保育士役の方に、家ごと管理を任せる)保育で困っている状況を役所に分ってもらわねばならなかった。
こういった事業では、矛盾の錯綜状態で進めていかねばならん。家を提供する家族と利用側に回っている親たちの利害対立、親の負担は巨大だが保母さんへの手当は十分には払えないという矛盾、親同士の対立などである。できれば、プライバシーがオープンになってしまう、自分の家を提供することはしたくない。しかし誰かが「我が家を空けますから共同でやりましょう」と言い出さないと進まない。
結局私の家からスタートすることになった。そして市役所が見に来て、「保育に欠ける状況」を認め、とりあえず、翌年の4月までに仮設のプレハブを建てて、我々に貸してくれることになった。それまでは各家庭を提供し続けなければならない。
こういった共同事業で、一番の問題は「オムツの洗濯をしておいてほしい(乾いていなくてもよい)」という親の願いだ。このばあいは、選択をする保母の方、各家庭が洗濯機を使わせるかという問題で、矛盾が起こる。
最初の家(私のところ)では、「洗濯機を使わせていただければ洗うだけはしてもいい」という保母さんの意見があり、「きれいに流して洗っておいてくれるなら……」ということで、オムツの洗濯はスタートした。しかし、2〜3ヶ月して次の家へ移った時に問題が起こった。その家が「やっぱりそれぞれがオムツは持ち帰って洗うことにしてくれ」と云われ、もっともなことだと皆が了承した。
やっと裁判問題に触れることになる。
我々の仲間の一組(夫婦)に裁判所に努めている人がいた。私より少し年上のその人が、保母さんに対して「今までオムツの洗濯をしてくれていたのに、止めてしまうということは“既得権の侵害”である」と苦情を述べたのだ。
ある晩、遅く帰って私のところへ、保母をやってくれている60歳ぐらいのおばさんが二人で来て、泣きながら私に訴えた。
私はまだ20才台だったし、私の勤めていた編集屋の会社が倒産し、行き場のないヤツばかり残って、何とか食っていく道を模索しているときの組合委員長だったと思う。むちゃくちゃ時間がない時だったので、「分かりました。とにかく怒って辞めたりしないでほしい。私は明日も手が離せないので行けないが、糸乘に相談したら『気にしないでくれ、洗濯機なしで洗うことなどはできない。みんな持って帰ってもらえ。Sさんが何か言ったら、糸乘に直接言え』」と云って帰ってもらった。それで一応おさまった。しかし“既得権”という感覚がすごい。裁判所の人たちは、人間社会の常識がない。
<アナログ思考ができない。デジタル記憶のみ>
テレビの天気予報を見ていた。台風になっていた低気圧が(1000ミリバールを超えて)温帯低気圧に変わったと説明していた。すると裁判官をやったこともある弁護士というコメンテーターが、「台風は反時計回りでしょう。温帯低気圧になったら風の向きが変わるのですか」と気象予報士に尋ねた。これにはオッタマゲタ。温帯低気圧になった瞬間、風が一瞬静止し、また逆向きにふき始めるというようなことが138億年の宇宙史の中で起こったことはない。これを信じることで人類の科学研究が行われているのだから。デジタル記憶のみで判断していると、どんな事故が起こるか分からない。
実は、この話をテレビで見て、「既得権の侵害」を書く気になった。データは一つより二つの方が証拠として強いと思うので。