何となく「木枯し紋次郎」を買った

作家か評論家が「私は時代小説は読まない。なぜ山本周五郎を読むのかって?山周はみんな現代小説ですよ」と書いていたことを覚えている。ところで、笹沢左保の「木枯し紋次郎」も現代小説だと思う。
大阪事務所を千里ニュータウンに作った時、土曜日の午前会議の後、千里センターの大丸ピーコックで弁当やおかずを買い、缶ビールを飲みながらだべっていた。「なんでわしらみたいな零細企業の人間まで、ビールが飲めたりするんやろう」「誰がこの分を稼いでくれているんやろう」などとだべっていた。
すると、初夏の頃だったか、朝日新聞の夕刊に「就職あっせんは同系列で」という記事が出た。大手企業の系列会社が就職あっせんの会社を作って世話をしているという記事だった。また、一週間たつと「結婚も同系列で」という記事が載った。この方は、明らかに前の記事に対応させたもので、夕刊のページも段数も同じぐらいになっていた。
この記事を見るとわれわれ悪ガキは、「わしらのような中小企業の人間は仕事もないし、も結婚もできんということか」「いや、われわれ無宿人は、大手に雇われて働くんや」「敵味方に分かれて雇われたらどうするんや」「その時は、お互いに怪我をさせんように、ちゃんと示し合わせてやらないかんよ」「あっしには関わりのねえことでござんす。てなことをいいながら」などと“おだをあげて”いた。
木枯し紋次郎を見ると、テレビに出ていたのは1972年1月1日からだとある。千里ニュータウンに事務所を作ったのも1972年だ。

“挫折を味合せたい”(元体操のオリンピック選手(?)の母が娘に対した言葉

この冬のことだったと思う。なんとなくテレビを見ていたら、小学生ぐらいの女の子が体操の練習をしていた。引退して結婚し、娘を育てることが日常となっていた母親は、体操競技から離れた体になってしまっていた。娘がちょっと「お母さんと競争したい」というようなことを言ったのだと思う。そこには「お母さんに勝てるようになっている」という自負が込められていたのだろう。
そこで母はトレーニングを始め、体の作り直しから始めた。やっと娘に勝てたとき、傍らで見ていた人が「なぜそんなに勝つことに頑張ったんですか」と質問した。それに対する答えが「娘に挫折を味合せたいから」だった。いい母親だ。

「ウィンストン・チャーチル」という映画を見た

ダンケルク」と対になった映画のように感じた。私は、敗戦時には小学3年生だったが、戦後の先生たちの急変ぶりを見て、みっともないと感じていた。
イギリスが負け続けているときに、チャーチルが首相に指名され、愛国心を訴えていたことに感動した。結局日本の軍官複合体の投げやりな負け方が今でも許せない気でいる。結局官僚主義の連中は、自分の命と利益に執着しているだけだ。現在の大蔵官僚も同じだ。
イギリスでは、ダンケルクの頃、大政翼賛会ができることもなく大っぴらに議論していたのだ。こんな場面を見ると、涙があふれた。帰ってきて「戦艦大和の最後」(吉田満著)を引き出して。日本にもこんな心映えの若者がいたのだと思い、ひそかに慰めていた。
結局、「自分でリスクを取って立ち向かう」ことから逃げる人間はマトモ(真艫)ではないのだ。

杉の根がない……耶馬渓町の土砂崩れの杉の木が変だ

土砂崩れのところに並んでいる杉の木の直根がない。これも実生の苗ではなく、枝の先を育てたものではないか?。
とすると、横に伸びる根ばかりで、雨水の浸透を防ぎ安定した根が張らないのではないか。とくに密植したままの杉の植林地は崩れやすいのではないか。つまり水分が適当にしみ込んでいないので、根が弱い。誰か学者さんが言ってくれないかな。

「安いモノを高く買う」──オチコボレ流の買いもの術 

「高いものを安く買う」という考えは、まずい生き方だと思っている。なぜなのか。「おかしいのでは」と聞かれるかもしれないが、そうではない。高いものは半値になっても高い(高い×半値=安いまでには遠い)ので、買わないのである。半分の半分になっても買わない。一万円の四分の一は二千五百円。
しかし二百円の味噌を買うより、五百円の味噌を買うとうまい味噌汁ができる。高いだけでまずい味噌もあるので一個だけ買って、試してから買うとよい。今日は気に入っている味噌が買えたのでいい気分。さあ、上手い味噌汁を作ろう。
みそ汁の味噌で喜ぶような奴は、低級な人間だが、「低級高品質」こそ上等の原点だ。

長いことブログをさぼったが、これから再開しよう。

じねん思想と日本の大相撲(180120)

 「見合って、見合って、ハッケヨイ」は、“お互いに相手に合わせて”ということであるから阿吽の呼吸で立つわけで、相手より早く立とうという態度は、相手を尊重していないので日本の相撲道には合わない。これらの問題に対する白鵬の態度はおかしい。
ハリテ・カチ揚げ禁止をルール化すればよいという人がいるが、ハリテそのものが問題ではなくて、相撲のプロセスの中で出るのは、別に問題はない。「見合う」という相互平等の精神を尊重していればよいのだ。
何年か前に、白鵬が、双葉山大鵬の相撲を誉めていたが、この両横綱はともに行司差し違えで連勝記録を失っているが、不平を言い立てたりはしなかった。白鵬もそれをよしとしていたように見えた。もともと判官贔屓である私は、当時あまりの日本人力士贔屓に対して、白鵬びいきだった。
“お互いに相手に合わせる”ということは自然体のことで、抜け駆けをするのは卑怯だという日本精神のもとになっている。相手に合わせて同時に立ち上がるということは、ルールではなく大相撲の前提なのだ。日本人かモンゴル人かは関係ない。モンゴル出身の力士に対して、否定的に発言する人は不公平で、相撲の精神には合わない。

人類の生産活動の変化

a腕力社会
b汗かき社会
c知恵働き社会 (カンと段取り社会) カンとは「帰納と演繹」の組み合わせ
dマネーのみをパクリあう経済活動(価値を生み出す活動でない)が多くなっている社会
現在は知的労働が90%を超えるぐらいに、知恵の比率が高まっている。
知恵とは、過去の人間が積み上げてきたもので、今生きている人はそのおかげで生きている。昨日も今日も、明日も同じだ。つまり「人間は知恵の駅伝動物」なのだ。 
現代は「マネーパクリ活動社会」であり、多くの人たちが積み上げたものを、効率よくパクルことが重宝にされ尊敬される。
経済学が「パクリ活動学」になり、計算学になって、「人々の働きをうまく生かす」マネジメントを排除したことから始まった。
働きをうまく生かすことを尊重する社会でありたい。(180105)