神山さんと会う

 神山さんは、なかなかパワーのある人だった。83歳(私と同年)であるが、なかなか元気な人だった。

私の兄は思ったことをはっきり言うタイプなので、相手に合わせて上手口は云えないので、うまく合わない時もある。そんな事情もあるので、「よくケンカになっていた」という話も伝わっていた。だから私たちが訪ねて行っても、うまく話が合うか心配ではあった。しかし、その節にお世話になっているので一度お礼を言っておくべきだと思った。

神山さんに会った時、貞典兄のことを一瞬思いだせないようだった。1984年10月のことなので、35年経っているので仕方ない。帰ってきてから兄の日記を見ると、神山さんのところに住まわせてもらってはいるが、信楽内をウロウロして、他の窯にもお世話になったようだ。

いろいろもがいていたが、病状悪化で奈良の中島家へ引っ越したのが85年4月なので、信楽で世話になっていたのは半年だったことになる。3月にはブラジルの土が届いているが、その土をどうしたか日記に書かれていない。

奈良から大阪の病院に入院しても、まだブラジルへ帰って器づくりを伝える気分は強かったようだが、癌が悪化して大阪の病院で亡くなった。

神山さんと1時間半ぐらい話していた。始めは「糸乘さんは理想・夢を持った人」だった。ブラジルだけでなく世界中でみんなが焼きものづくりをするようになれば良いと思っていた、という話だった。しかし段々と「スカーレット」に話になり、「私の話と違うストーリーが多い」と、かなり不満を持っているようだった。「私は大阪なんか行ってませんよ」ということだった。世間ではテレビで放送されるとそれが本当だと思ってしまう。その立場に立つと大変だろうと思った。

 神山さんは、なかなかパワーのある人だった。83歳(私と同年)であるが、なかなか元気な人だった。

私の兄は思ったことをはっきり言うタイプなので、相手に合わせて上手口は云えないので、うまく合わない時もある。そんな事情もあるので、「よくケンカになっていた」という話も伝わっていた。だから私たちが訪ねて行っても、うまく話が合うか心配ではあった。しかし、その節にお世話になっているので一度お礼を言っておくべきだと思った。

神山さんに会った時、貞典兄のことを一瞬思いだせないようだった。1984年10月のことなので、35年経っているので仕方ない。帰ってきてから兄の日記を見ると、神山さんのところに住まわせてもらってはいるが、信楽内をウロウロして、他の窯にもお世話になったようだ。

いろいろもがいていたが、病状悪化で奈良の中島家へ引っ越したのが85年4月なので、信楽で世話になっていたのは半年だったことになる。3月にはブラジルの土が届いているが、その土をどうしたか日記に書かれていない。

奈良から大阪の病院に入院しても、まだブラジルへ帰って器づくりを伝える気分は強かったようだが、癌が悪化して大阪の病院で亡くなった。

神山さんと1時間半ぐらい話していた。始めは「糸乘さんは理想・夢を持った人」だった。ブラジルだけでなく世界中でみんなが焼きものづくりをするようになれば良いと思っていた、という話だった。しかし段々と「スカーレット」に話になり、「私の話と違うストーリーが多い」と、かなり不満を持っているようだった。「私は大阪なんか行ってませんよ」ということだった。世間ではテレビで放送されるとそれが本当だと思ってしまう。その立場に立つと大変だろうと思った。

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神山さんの寸越窯の家

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神山さんの寸越窯