信楽焼と私の兄

  これは、三番目の兄(7歳年上)が、信楽に弟子入りして最初に作った“手びねり”の小皿だ。私が一番末弟で、長兄は15歳上、次兄が9歳上、この器を作ったのが三番目の兄で7歳上だ。皆60歳の頃に亡くなったので、私も60才頃に死ぬだろうと思ってきたが、すでに83才になってしまっている。

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 4人の男兄弟の中で、最も変わった生き方をしたのが三兄だと思う。はっきり覚えてはいないが、1965~70年頃に世界旅行に出かけた。15万とか30万円(1964年の私の給与は15千円だった)かかったとかいう自転車を特注で作り、スカンディナビアから南下し、スペインで自転車を2万円で売り、アフリカに入った。

  アフリカを南下し、途中はバスを乗り継ぎながら一つ一つの国を旅していった。バスというのは大体トラックの混載で、いつも満員だ。バスがつくと、ややこしいヤツが下りてきて「俺に任せろ。値切って安くしてやるから金を渡せ」という。あるところでは「もうこの国にいても仕方ないな」と思って「バスばどこに来るか」と尋ねるがよくわからない。なんとなくこの辺りらしいと受け止めて、待つことにするが「はっきりしないことを前提に、じっと耐えて待つ」ということが最も苦手なのが日本人だ。

 「本当に日本人て、ダメなんだなあ」と言いながら話してくれたことは、一応バスが来るところらしいと思って待っていても、本当かどうかわからない。夕暮れになると仕方なく,近所でシュラーフにくるまって寝る。翌朝バスが行ってしまったら困るので、昨日の辺りで待つ。昼頃になると少し離れてところで、何となく立っている人がいる。ひょっとすると彼もバスを待っているのかもしれんと思って少し安心する。夕方になると彼がいなくなる。「今日はもう来ないということかな」と思ってシュラーフにくるまる。

 翌日も同じように待つと、また一人立っている人が増える。「いよいよここがバス停らしい」と思う。「とにかく、われわれはこんなことに弱いダメ人間だ」というのが彼の言いたいことだった。

 中央アフリカから東へ向かい、キリマンジャロへ登ったような話をしていた。インド、ネパール。東南アジアの国をめぐり、帰国した。

 しばらくすると、今度は北米大陸から南アメリカ大陸の南端までの旅に出た。途中で、アマゾン中流域で、東京農大の学生さんたちがたむろしているモンテアレグレに立ち寄っていたらしい。そして南アメリカ大陸を南端まで行った後に、モンテアレグレに戻ってきたのだろうと思う。その理由は①日本からの入植者たちが、ピメンタの不作で困っていたこと、②もともとアマゾンがゴムの原産地であるのに、ブラジルがゴムの輸入国になってしまっていることだった。

 ゴムはブラジル政府によって国外持ち出しが禁止されていたが、イギリス人によって密輸され、マレーシアが世界のゴム産地になってしまい、ブラジルのゴムはすたれてしまっている。ブラジルのゴムがフォード自動車のタイヤになったころは、アマゾンの中心の都市マナウスは空前のゴム景気に沸いていた。ところが今は輸入品になっているのだ。

 私の兄はその状況に矛盾を感じたようで、マレーシアにゴム栽培を学ぶための働きに行っている。そして彼のやったことは、モンテアレグレで、ピメンタとゴムの交互植栽培林づくりであった。

 丁度その頃だったのだろうと思う。兄から「25万円送れ」と言ってきて、30万円送ったことがあった。彼が写真の器を残して死んだのが1985年で、私が武司さんとモンテアレグレでゴムとピメンタが交互に植わった畑地(林の造成中)を見たのが1995年だ。