信楽高原鉄道の起点、貴生川駅

 この駅に行くのは50年ぶりぐらいのことだった。兄のことで信楽へ行ったついでに、貴生川駅まで送ってもらった。この地域には50年前に仕事で来ている。今の甲賀市は旧甲賀郡で、水口町、日野町、甲賀町土山町などにわかれていた。

私が地域計画の事務所に就職したのは1968年(昭和43年)のことで、マネージャーとしてであり、専門分野の仕事に口を出さないようにしてくれという条件が付いていた。その年、これらの町から「総合計画」の委託を受けていた。彼らは全員「自分は専門家だ」と思い込んでいるが、実際に町の企画課長などとまちづくりの打ち合わせをする基礎教養に欠けていた。これは当然のことだ。大学の教授でも無理かもしれないのに、大学卒業だけで、現実の社会活動の経験のない若者が出来るはずがない。という状況で「専門の仕事には口を出すな」と言っていたにもかかわらず、「一度一緒に来てもらえないか」と云いだした。

若い所員が2-3人水口町へ行く時、付いて行った。当時のことだから、行政もコンサルタントも国や県のいう総合計画ということを「指示通りに、なにかする」といった状態だった。私がおかしかったのかもしれないが「こんなことでは意味がないな」と感じていた。その時だったか、「次は○月○日の夜、住民懇談会があるので出席してほしい」と言われた。その時もついて行ったが、行政担当者も「国の方針で、県の指示で」というようなことしか言わない。

その中で「圃場整備は反対」の声が出だした。「先祖から受け継いできた田圃を、役場や県が削り取ろうとしている」というのが反対理由で、みんなが大声で叫び出した。それに対して役場の人は「これは国や県の方針で、そうすることになっている」と云うばかりだ。

私は編集屋をやっていた頃には、25~6才の若造で商店街の集まりなどで取材をしたり、各地の事例などを話したりしていたので、こんな風な役所の都合ばかりは話しても意味がないと思った。つい手を挙げて、話し始めた。「皆さんは圃場整備で道路を広げるために、田圃が削られて狭くなる。先祖から受け継いできた田圃を守りたいということですね」「そうだ」「今、日本人の米を食べる量が減りつつある。2~3年前までは国民一人当たり120キロだったが最近80キロぐらいに減りつつある。それを考えるともっと省力型の米つくりを考えねばならんのではないか」「それでも先祖から受け継いだ田圃は守っていきたい」「それについては役場にいろいろ条件を付ければいい。ところで皆さん。圃場整備しないと手間がかかる田圃のまま残る。他所はトラクターでやっているのに、自分の所は手間のかかる稲づくりだったら、息子たちは田んぼを売ってしまうという心配はないか」と言ってみた。とたんに空気が変わった。

その後あまり水口町の会議にはいかなかった。近くの町で「地域づくり」の話をしたことはある。50年経って圃場整備の結果を見るために、貴生川駅から電車で草津の向かった。圃場整備ゐされた田んぼが広がっていた。

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線路わきの広く整備された田んぼ