有田ミカン

 うまいミカンと、大きくて形は良くても、それほどうまくないミカンの見分け方を知っているつもりだ。結論を言うと樹勢がよいミカン、成長がよいミカンがうまいと思っている。では①樹勢がいい場合どんなミカンができやすいか。たくさん実をつけやすい→摘果を厳しくしないと小玉になりやすい。②成長がよいとどうなるか。実の成長がよくなる→丸いミカン=背位の高いミカンになる。平らなすわりの良いミカンにはならない。

 私が考えているだけなので、責任は取らない。自分も納得されるようなら、この方法で見分けられるとよい。これに気が付いたのは65年前のことだ。

 有田ミカンを送ってもらった。今はどうなっているか知らないが、65年前の有田では「沖・乃・白・帆」という等級付けになっていた。「沖」より大きいのは好まれず、上等が「沖・乃」で、「帆」は等外のような扱いだった。実際旨いのは「白」だ。これは理屈に合っていて、小粒の実がたくさん生るということは、樹勢がいいということである。大きい実は皮も内の袋も硬く食べにくいし味も落ちる。

 有田ミカンを見ると18才の頃が思い出される。それは「オヤジからの自立」と「何とか生きていけそうだ」という自信とまで行かないが、「なんとか自立するぞ」という気分が湧いたことを思い出す。

 高校卒業後、オヤジに反駁して鉱山に行っていて、そこが中止になって、あとは勝手にせよと言われて、オヤジのもとへ帰った。そこへ小学校からの友達が二人で訪ねてきて「紀州へミカン仕事の出稼ぎに行かないか」と誘ってくれた。そこで即、行くことにしてオヤジに言うと「オマエのような者が辛抱できるはずがない」と云った。その時「これで出稼ぎに行ってやり遂げたら一節つけることになるな」と思った。

行った所は紀州の有田だった。ミカンは紀州では畑で作るものではなく、山の作物だ。紀州は山ばかりで平地がないので、かなりの斜面地に簡単な積み石をして、土を持って上がったりしてミカンを作付けしている。11月末に行ったすぐから、毎日ミカンを収穫し、山から天秤棒で担いでおりるという仕事だった。ミカン畑には簡単な石積みの階段のようなものがあり、その階段は踏面が水平でなく少し下がり目になっている。始めはこの階段を足早に下ることが怖かった。しかしこれもそれほどのことはなく毎日ミカンの収穫を続けた。

それより大変だったのはハラが減ることだった。有田にも平地=田圃がないわけではないが、江戸時代からコメを普通に食べる習慣はない。茶粥の土地柄だ。朝からずっと茶粥を食べて、夕飯だけご飯が少し出る。年寄りなどはそれも茶粥だったりする。だから“ヤツ”という習慣がある。6時に起きて茶粥を飲んで、7時にはミカン畑で収穫を始めている。そして9時半ごろになると「ヤツ飲もら」と声をかけてくれる。茶粥を飲むのだ。これには驚いた。ヤツの時間だから腹が減るから何かを食べるということではなく「飲もら」という訳で、茶粥には米粒がほとんどなく、まさに飲み物だった。

いくらヤツを飲んでも、すぐオシッコになってしまう。昼食もヤツだった。3時ごろになると「ヤツ飲もら」。さすがに夕食には「あなたはご飯食べな」と言われるが、みんなが「茶粥がうまい」と言っているので、茶粥と半々ぐらいだった。この家は規模が大きかったので、近所の同年配の若者にも時々来てもらった。私が「腹が減る」という話をすると、「ミカンを食べよし」と言って食べ始めた。「そうかミカンを食べるのはいいんだな」と思って食べ始めた。「ヤツよりもうまい」のでずいぶん食べた。1月後の年末の里帰りをする頃には、目の白眼の部分も顔色も黄色くなってしまった。天秤棒でミカンを担いで集める仕事は、少し肩がはれたりしたが、12月で終わった。それほどつらいとは思わなかったが、腹が減って困ったのだ。

しかし本当の労働は1月以降にやって来た。この家は規模の大きい農家で、ミカンの成木の手入れも多かったが、苗木栽培もかなりの規模でやっていた。

紀州の斜面地農業=ミカン栽培は耕作(土地を耕す)ではなく、畑地を造成するような仕事だ。苗木の手入れは私の仕事ではなかったので、ミカン山へ肥料をもって上がる仕事を毎日続けた。油粕などの肥料は少なく、綿の紡績クズのようなものや稲わらなどを毎日担いであげて、ミカンの木の下に敷き詰める仕事を続けた。

この家は、「土づくり」ということに大変な努力をしていた。毎日毎日、綿くず、わら、油粕などを肩で担いで斜面を登った。わが「出稼ぎ農民」の日々は、土づくりの仕事だった。苗木販売は、土をつけて売らねばならないので、苗木園での土補給も大変だった。この仕事を1月から3月末までしたので、体力もついた。私の骨格作りにも役立った。

毎日担いで上がる中で、幅30センチぐらいの階段の踏面が下がり勾配になっている意味が分かった。登るときその方が登りやすいのだ。かなりきつい仕事ではあったが、紀州の人々が江戸時代から平地のない国で生きてきたことがしのばれた。

この4か月余の仕事で4万円の貯金が出来た。この金がその後の何かへスタートする支えになったと思う。実際は大学に入る入学金になった。また帰る時、温州ミカンの苗木を一本貰って帰った。田舎の畑に植えたら3~4個なったが、わが田舎は寒い国なので、旨いミカンにはならず、冬の雪の下で枯れてしまった。