小2の時、右目の視力が0.1だということが発見された②

 もう少し小2の頃のことを書く。
 片目が見えないということが分かって大変だということになって、バスと駅を乗り継いで豊岡病院に行った。おそらくほかの病院にも行ったと思う。両親は、私が進行性の眼病で盲目になってしまうことを心配していたのだと思う。おそらく、病院に云われたのだと思うが、京大病院に行くことになった。
 ここから、今の時代の人には想像できないような体験を書く(当時、私の周辺の雰囲気を感じていたことを含めた類推もあるが、その頃の常識でもあった)。
まず第一は、京都の泊めてもらうところの手配だ。ということは縁戚や知り合いを辿ってお願いするのが当時の常識だった。手紙を出してお願いをしなければならない。昭和19年(1944)の5〜7月頃のことだから、戦況は悪くなってきていた。お願いしたのは私の祖母(私が数えの三歳の時、おんぶをして子守をしてくれていて、「ああえら」と言って上がり框で降ろして、奥の部屋に行って寝た後ですぐ亡くなった)の親元の親戚ぐらいの遠縁を辿ると、京都の稲荷山の眼力社というところだった。
第二の問題は汽車の切符の入手だ。一般人は手に入れることができなかったので、親父の知り合いを通じて軍人の中佐ぐらいの人に買ってもらって受け取ったようだ。当時の山陰線は2等(今のグリーン車、3等の2倍の料金)と3等(今の普通)の列車だった。切符が買えるということが大変なことだったので、買っていただければ満足なのだが、手に入ったのは2等の大人用の切符と3等の大人用の切符だった。いくら軍人でも、大人の軍人が子供用の切符を買って、子供連れで旅行をするという時代ではなく、3等の大人用ならいいと思ったらしい。
父親に連れられてバスに乗り、駅で汽車に乗った。2等の大人用と3等の大人用の切符を持っていたので2等車に乗った。その車両には前の端のあたりに軍人が一人乗っていただけだったが、我々は反対の端に座った。しばらくすると国鉄職員が検札に来た。途端に大声で詰った。「3等車の切符ではないか」というようなことだ。父親は「3等の大人用は2等の子供用と同額だからいいのかと思った」というような弁解をしたが、より一層怒った。我々親子は3東レ社に移ったのだが、そこはいっぱいで、しばらく座れなかった。国鉄職員は国家公務員だからエライわけだが、威張りようはひどかった。なんか僕のせいで親父が怒鳴られるのは嫌だった。2等車に残ったのは軍人一人だった。
京都駅について、八条口で出て、少し歩いて稲荷行の市電に乗って稲荷山に行った。翌日は東山線の市電に乗って京大病院へ行った。子供の頃の大旅行だった。