一番危険だと思った登山経験

65年ぐらい前のことだが、高校2年になって山岳部へ入った。1年次は遠距離通学のためクラブ活動に参加することができなかった。山岳部へはいったらすぐ、3年生から「部長は2年がやることになっているから、君が部長をやれ」と言われた。ずいぶん乱暴だと思ったが、やることになった。
二度ほど、近くの千メートルぐらいの山に、テントを担いで土曜の午後に登り、日曜の昼頃帰ってきた。農山村育ちなので、町の子よりは自然とのかかわりが多かったが、それが山岳部体験のすべてで、つぎは部員のほとんどが参加する大山(ダイセン)登山だった。
3年生の先輩がリードしてくれたが、一応部長ということなので、午後遅く大山寺について岩場の練習をした。登るのは何とか上ったが、上に着いたら「ザイルで降りろ」という。初めてだったが方法を聞いて注意して降りた。
翌日は早朝から大山に登り、縦走で地獄谷まで行って、そこの岩室で泊る予定だった。山頂から縦走に移るとき、あまりの痩せ尾根に驚いた。われわれのチームが雪解け後最初の縦走だったようで、誰も歩いた形跡はなかった。
先輩の指導で、全員がザイルでつながり、「もし誰かが右に落ちたら次のメンバーは左に落ちるように」と心に決めて歩き出した。私は新米ながら部長ということになっているので、シンガリを勤めるように言われた(記憶違いかもしれないが、シンガリは落下事故の場合の最後の引き留め役だ)。一歩足を動かすたびに、小石が落ちていき、それが他の石を誘って、ザザー・ザザーと音を立て、下に行くと大きな石も巻き込んでガラガラ―と落ちていった。
全員注意しながら縦走をつづけたので、縦走がはかどらず大幅に予定時間から遅れた。痩せ尾根を過ぎたら下りの緩斜面だったが、ギボウシ(だったと思う)が全面に生えていて、一歩一歩滑って転んだ。とはいえ、危険は去っていたのでみんなが助け合って夕暮れの斜面を歩いた。キャンプ予定地には8時ごろ、真っ暗な中で着いた。
何かを食べて(飯盒で炊いた飯と大鍋に何かを、たくさん入れて炊いたようなものだった気がする)とにかく寝た。後の記憶は飛んでいる。
十年ぐらい後の夏20代の頃、一度だけ一人で大山に登った記憶がある。あの痩せ尾根を確かめてみたかったのだ。縦走路はちょっと歩いただけでやめた。尾根筋の幅は1メートル近くあり、山開き前に手入れをしているようだった。
高校生が雪崩事故にあって、教師や学校に対する責任を問う声がマスコミに出ているが、逆ではないかと思う。我々の世代は、軍国主義官僚や軍部による強制で苦しめられてきた。それに対して戦後、真逆な無責任教師や学校が多くなった。ところが今は戦時中の官僚統制のような立場をメディアがやって、学校、教師、高校生の自主性がなくなっているのではないか。
事故は自主性・主体性のない時に起こる。最も危険な状態だと思う。