津端さん夫妻の映画(人生フルーツ)

イヤー いい気分になれる映画だった。会社で一緒だった真紀ちゃんが「つばたさんが映画になってますよ」と知らせてくれて、一緒に見に行った。
入り口のドアが開く前のところに、20〜30人ぐらい並んでいた。これには大ビックリで、永年、大勢の人が並んで入るような映画館の記憶がない。
津端さんがなくなったという連絡は届いていたが、「生きていて話ができるなら会いたいが……」といった気分で、葬式に行く気はなかった。この映画で、亡くなられた時のことや、デスマスクを見て「ヨカッタな」と思った。
最初の出会いは1980年代の後半で、よく覚えていないが、主観の強い人で「思い」がはっきりしていた。いうなれば、異端と思われても自分の「思い」を主張できる人だと思った。
80年代後半、つまり昭和60年ごろから、リゾート開発論が流行り出した。私自身がリゾートツアー見学に誘われてフロリダや西海岸地域に行っているぐらいだ。その頃は国を挙げて「リゾート推進」のような空気になっていた。そんな時、ある一つのプロジェクトをやってみないかと云われ、仕事をさせていただくことになったが、上滑りのリゾート論にはついて行けない気分だった。
そこで検討委員会のメンバーに、津端さんや望月さんなどに入ってもらった。国の役所や県庁などが変なリゾート風に吹かれている状態に対する、冷風係だったわけだ。津端さんにはそれ切っ掛けに何度もお会いするようになり、この映画の舞台となっている高蔵寺の津端亭に三度くらい行った。
行くたびに我々を迎えるための手料理をしてくださり、燻製を作ったり、餅をついたり、大変なもてなしだった。我々というのは、せっかくだから興味のある人を連れて行ったのだ。津端さん夫妻は気楽に、楽しそうにもてなしていただけるので、気分的にも楽だった。
映画では、高蔵寺ニュータウンとして、完全に荒れ地となった造成地を、コツコツと、ドングリを植え、竹を植え、25区画の畑を作り、いつもいつも落ち葉を入れ、コンポスト腐葉土を作って、豊かな土を育てた。
初めて行ったときはどこから入るのか分からずに、うろうろしていると、縁側のような、部屋のようなところへ直接入るのであった。最近は「玄関はありません」という看板が下がっている。
とにかく自由なお二人で、楽しく付き合い、いろいろ学ばせていただいた。