「日本死ね」というデモの正体

日本死ね」というデモがあるらしいと気が付いたが、テレビはチラチラ見るものなので、日韓とか日中のことかと思っていた。それにしてもまともな話とは思えなかった。
ところが今日、テレビを見ていて意味が分かった。
保育園に子供を入れたいが、抽選に当たらなかった人が、頭にきてネットに書いたらしい。今度はそのプラカードをもってデモをしたらしい。
これを見ながら、50年少し前に保育所作りをしていたことを思い出した。関西の団地に住んでいた時、幼児を含めて預かってもらえるところを作ってほしかった。運動といっても、行動できる人が何人かで福祉事務所だったかに「おねがい」に行ってもらった。私は小さい会社勤めなのでとても行けなかった。
お役所で聞いたことは「保育に欠ける子供を、措置しなければならない」という法律なので、「保育に欠けている」という実態がないと作れないのだ、と言うことだった。
親が仕事を休んだり、仕事を辞めたりすれば「保育に欠ける」という状態はなくなる。当時過激な人がいて、福祉事務所長さんだったかの玄関に「子供を置いてきた」というような話も聞いた。
相談していたのは3月の中旬ぐらいだったか、夏休みの終り頃だったような気がする。中学校の教師夫妻がおられたから。当面の解決策はみんなの自宅(公団住宅の2Kか2DKくらい)を提供して、世話をしていただける方を2人頼んで、闇雲にスタートするしかないことはわかっていたが、自分から言い出すメンバーはいなかった。
結局私の家で、次の子供が生まれるまでの2か月間、やることで始めた。「福祉に欠ける」状態の幼児が6〜7人いることが表面化した。それを報告に福祉事務所に行って、見に来ていただいた。この運動には、親だけでなく団地の主婦の方4〜5人にもサポートして頂いていた様な記憶がある。
まず、親が自分たちでリスクを取って、親一人分の給与ぐらいの負担をして、一切親の負担で始めたので、福祉事務所の人にも応援して頂いたと思う。
私のところは2階だったが、5階(エレベーターなし)の家もあったので、早朝から通勤コースの逆方向の5階まで行くのは大変だった。しかしみんなは、とにかく役所に分かってもらおうと、一生懸命だった。
誰が見ても、両親が仕事に行っていて、おばさんが2人来て、多くの子供の面倒を見るには、とにかく狭すぎるし、一挙に問題が広がった。市役所もほっては置けないと言うことで、公団団地の一部を借りて、プレハブの保育所を立てて我々に貸してくれることになった。
持ち回りの無認可保育所は半年余りで終わって、プレハブの無認可保育所に変わった。
日本死ね」というような気持ちの悪い運動ではなく、親がリスクを取って始めているので、雰囲気のいい状態だった。
誰かが知らせたのか、NHKの地方局が取材に来ていて、私が朝、子供を連れて行ったら「もっとこっちを向いて子供さんを渡してください」と言われてびっくりしたが、横を向いたまま頼んだ。それでも後で、「テレビの放送に出ていましたよ」と言われた。
みんな貧乏な時代で、親の負担は巨額だったが、悪くない思い出だ。
日本死ね」と言っている人たちは、アメリカとか中国に面倒を見てもらいたいのか、やっぱり日本の若い世代にツケを回してでも保育所を作れと言っているのか、自分はどんな役回りをしたいのか、よくわからない。気色の悪い言葉だ。
実は我々も、今でも涙が出そうになる思い出もある。それを次に書く。