我らは駅伝動物だ② 駅伝マンという本・日本を走ったイギリス人

人類が宇宙史の駅伝に参加し始めてから、モノの変化を伝える駅伝(例えばDNAなど)以外に、精神文化の駅伝も加わった。
少し計算してみよう。除夜の鐘の最後が鳴った時(新年が始まった瞬間)にビッグバンが起こったとすると、地球が生まれたとされているのは(45億年前ぐらいとして)9月初めごろだ。
12月中旬ぐらいに当たるカンブリア紀(5億年前ぐらい)に、多くの生物が生まれる。そして6〜7千万年前ぐらいに、我々に近い霊長類が生まれた。それは12月30日ぐらいに当たる。
ついで、500万年前ごろに二足歩行の猿人が生まれる。これはもう12月31日の9時ごろだ。

自分が誰の力で生きているのかと言うことを考え出したのは、40余年前頃だ。その頃「まちづくりの合意形成」をサポートする仕事をしていた。何百世帯という集団の「これぐらいでどうか・この程度で合意できないか」という提案をしなければならないとき、怖くなってしまっていた。そのときたまたま本屋に入り「歎異抄」を開いてみた。
親鸞はそこで、「父母の孝養のため」念仏を唱えたことはない、皆が「世々生々の父母兄弟」だから、「順次生に」助け合えばいいんだ、と書いていた。そして「自分程度のヤツができることは知れているんだから、一生懸命やって、出来ないものは仕方がない」と割り切った。いろいろ幸運もあり何とかやれた。
その時「自分一人でできることは何だろう」と思った。まず、今座っているイスやテーブルは、多くに先人の汗とチエでつないできたものだ。「自分には、自分でこしらえたり考えたりしたモノが全くない。自分だけの力では一瞬も生きられない」と言うことに気付いた。自分が勝手にできるのは「内面のこころ、気持ち、意識、ボディだけだ」と思った。
結局、「自分の持てる力いっぱい出した」と、自分で納得できるだけ努力すればいいと云うことだ。
人類が宇宙史の駅伝に参加し始めてから、モノの変化を伝える駅伝(例えばDNAなど)以外に、精神文化の駅伝も加わった。
少し計算してみよう。除夜の鐘の最後が鳴った時(新年が始まった瞬間)にビッグバンが起こったとすると、地球が生まれたとされているのは(45億年前ぐらいとして)9月初めごろだ。
12月中旬ぐらいに当たるカンブリア紀(5億年前ぐらい)に、多くの生物が生まれる。そして6〜7千万年前ぐらいに、我々に近い霊長類が生まれた。それは12月30日ぐらいに当たる。
ついで、500万年前ごろに二足歩行の猿人が生まれる。これはもう12月31日の9時ごろだ。

この著者は、千日回峰行の北嶺大行満大阿闍梨にも会いに行って、「人間は誰しも“なぜ自分は生きているのか”という疑問を常に抱いています」と言うことを聞いている。自分だけの力ではなく、多くの受け継いできた先人のオカゲだ。
この本の取材のために日本に来る前に、「ケニアに渡り、大地溝帯に住むカレンジン族の偉大なランナーたちと一緒に練習を積んだ」というようなことまでしてきている。大地溝帯という文字が出てきた時、そこが人類発祥の地だと言われているので、ついニンマリしてしまった。
彼はその経験で、裸足で歩く、土の上を歩くことの重要性に気付く。今の人間は、靴を常用しているので足首や足の裏が退化していて、しゃがむことができないと述べている。そこを読んで20年ぐらい前から若い高校生たちが、コンビニの前で地べたに座り込むスタイルのジべてリアンが増えていることを思い出した。我々の年代は、しゃがむか蹲踞するかだった。これは、暮らしのスタイルの駅伝がうまくいっていないからなのかな。