歎異抄2

歎異抄唯円が日頃から仲間と、いつもいつも議論したり、話し合って確かめ合ったりしていたことを、「耳の底に残れるところを」書き留めたものに違いない。
黙読だと、昔の言葉が分かりにくいが、声に出すと何か調子が出て、何となくわかり出す。
京都烏丸七条下ルの法蔵館で、この時強く感じたことは、「みんな自分の思いを込めて生きたんだな」ということだ。では私も、地権者や多くに人の立場をよく考えて、「みんなが100点はあり得ない、それなりに、みんなが事業が必要ならそれなりに“やむを得ない”と思ってくれるようなプランを考えよう」と割り切った。私としては、役所の考えや、周辺の影響を受ける人や、補助金を出してくれる納税者のことも考えて、「俺にできることはこれぐらいだ」と思った。
この時のやり方を、「立場別・問題別整理表」にまとめ、事業としてペイする、赤字の出ない条件を組み立てた。この考えを書いて、技術士まで取れた。
1969年の隠岐島の仕事、その時考えたことと、再開発事業で1972年に考えたことが、その後の私の仕事の原点になった。