大相撲九州場所二日目、隠岐の海を応援

隠岐島には、昭和43年(1968年)から44年にかけて、何度も通った。夜10時30分発の夜行列車で出発し、米子でJR境線に乗り換えるのは、朝の5〜6時頃で、境港に着くには1時間余りかかったように思う。そこで“おきじ”か“しまじ”という大きな船で9時に出港し、途中、知夫里島の沖に停泊した。そこで手漕ぎの舟が寄ってきて乗客を乗せたり下したりする。さらに西ノ島の港に停泊し乗降させた。そこからさらに島後の西郷町まで行った。西郷港に着くのが、午後2時20分だったように記憶している。京都駅から数えると、16時間くらいだ。
私が乗るのは2等客室だったのか、一番底の大広間の船室に毛布を借りて横になっていた。しかし冬になると、日本海の荒波に遭い、船底をたたくので、寝ていられるようなものではない。
さらにもっと海が荒れると、船が欠航になるので、ずっと楽になった。海路では時間半かかるのに、米子空港から隠岐空港まで20分で飛んだ。当時は飛行機が高く、人間は安かったので、やむを得ざる事情がなければ使うものではなかった。45年ぐらい前のことだ。
仕事は、西郷町の基本構想を作るお手伝いである。
以上が隠岐の海の応援をする事情だ。
おおごえで「オキノウミ──」と大声で呼んだ。
立ち合いに遅れなければ勝つかもしれん……と云っていて、立ち合いにうまくたった。「カツゾー」と云ったら、新横綱が吹っ飛んでいた。金星だ。
いい気分だった。