オチコボレ経営者の、税金・役人嫌いの弁 3

?税金を出来るだけ少なく、遅く払う

この為の追求が原価管理の元になったし、経営上最も有効に働いた。
1968年にマネージャーとなったときの事務所は、全くマネジメントの意識がなく、「成り行き丼勘定」だった。象徴的なことは、業務委託の期間が終わって、受託金額を使い果たしてしまっていても、何となくわいわいやっているだけで、契約内容に注意している人間もいなかった。

年末だったか、「報告書は何時出していただけるのでしょうか」というTELがかかってきた。先方の町まで数人で何度も出かけていたので、交通費だけで契約金額をオーバーしていた。事務所会議の折、出張メンバーに「報告書を送れと言ってきているが、担当は誰なのか」と聞いても、「行けと決められたので行っただけで、担当メンバーではない」と全員が言った。

問題は「誰の責任か」ということでなく、会社としてどうするかなので、「今から担当を決めて契約内容も確かめて、計画書を作ろう」と提案したが、誰も名乗りを上げなかった。やむを得ず私が責任者になって、資料集め、必要な人へのインタビュウなどを進めた。

こんな事があったので、「これはたまらん」と思って、工程管理と原価管理をすることにした。原価の大半が人件費なので、業務別の仕事時間を記録させねばならない。全員がインテリなので、これは難儀なことだった。リーダーとなるべき連中がサボるのである。
昭和44年に初めて、45年度末までのおおよその見当が分かるようになった。ところが私が忙しくてチェックできないでいると、幹部メンバーのサボタージュにあって壊されてしまった。継続していなければ意味はない。次に巻き返すのは48年〜49年で50年頃にやっと分かるようになった。

原価管理をやって困ったことは、インテリは計算が出来るので、「俺は利益を上げているが〇〇君は赤字だ、給料を変えよ」というアピールだった。が、私は給与とは関係ないという態度を貫いた。

やっと本論にはいる。
このデータを持って、税務申告の基礎資料にして、税務署を納得させて進行基準の決算にした。大体の契約は3月末だが、当時は1〜3月にならないと契約書は出来ない。極端な場合には3月20日契約3月31日までというような仕事も多かった。

また、実際に契約受託金をもらえるのは、5〜6月頃である。まともに形式だけで決算をし、税務署と付き合うことになると、資金ショートをしてやっていけない。税務署もそれほど酷いことを言うわけではないが、客観的状況証拠を作っておかねば、担当が変わるたびに違った税務判断をされかねない。

5月に集金できた仕事を、翌年の3月末決算にすると、その間資金繰りがラクになる。利益の出ている仕事ほど決算をのばし(状況証拠を整えて)、赤字の業務は決算を早めると、実の都合がいい。この方法で「遅く払う」を実現したのである。

※わが孫どもよ、大きくなったらこれを読んで、「とにかく、問題から逃げない、一生懸命解決する」というスタンスを持ち続けよ。そうすれば誰かが評価してくれる。そして食いっぱぐれることもない。