貧乏花見(長屋の花見)という落語

この落語は、悲しく切ない、坂に貧乏を認めてうえで楽しくやろうという「国際社会」ならぬ、「貧乏長屋社会」の切ない建前花見物語だ。だから“お茶け”で酔っぱらうというちょっと小粋な物語だ。
ところが国際社会という人たちと北朝鮮の交渉事では、
いつまでも「建前」ばかりの話では進まない。まず現状認識を整理する係がいる。中国にはできないようだ。
原水爆北朝鮮が持っていることは実験で示されている。「持たないという前提」などは、20年ぐらい前になくなっている。その状況を作るために、北朝鮮以外の国々が協力してきたことは疑いない。各国とも「我々は建前として協力をしていない」という声明を何度流しても、それは現実ではない。わが日本もそれらの国の中に入っている。
”現実ほど頑固なものはない”といったのはレーニンだったかな。