小2の時、右目の視力が0.1だということが発見された①

身体の欠陥は若い頃は気になるものだが、80年も生きてくると、あまり関係がなかったように思う。右目が悪いということで具体的に支障が出たのは、中学3年のことだ。親父から高校へやることは無理だということで、「養成工」という制度が出来ていて、大企業の養成工に行くと、高校並みの勉強もできて給料ももらえるから、それを受けてみるように言われて町まで連れて行ってもらって受けた。
面接でいろいろ聞かれて何となく返事をした。面接をした人は何となく相性というか、好感が持てるような人で、何とか採用したいという雰囲気が表れていた。だが、眼が悪いことが問題で、不採用になった。このとき理系には行けないという潜在意識ができたのかもしれない
片方の目が悪いということが発見されたのは、小学2年の初めのことだった。発見という感じは、片眼が悪いということは本人も家族も、誰も気が付かなかったからだ。
おそらく1年生の入学の時は身体検査もなかったのかもしれない。昭和19年、小学2年生の時のことだ。初めて京都へ行き、伏見稲荷山の眼力社に泊めてもらった。そこは祖母の遠縁ぐらいの親戚だったが、当時は誰もが遠縁とかその知り合いなどという縁を探して泊めてもらっていた。おそらく、コメをいくらか持って行ったのだと思う。この時、京都に空高く、B29が飛んでいて教えられた。
父に連れられて伏見から市電に乗って、京大病院の眼科へ行った。病院では「これは治らないが、年を取ったら見えるようになるかもしれん」という見立て。このとき「自分はもう陸軍大将にはなれないのだ」と思った。
当時の小2のアイデンティティはサッカーではなく陸軍大将にあこがれることだった。いつも、講談社の絵本の「乃木大将」や、「岩見重太郎」、「楠正成・正行」,「四十七士」などをみていた。
向かいの家の年を取った「マンさん」が、忠臣蔵や岩見重太郎などの絵本を見たがった。私が5~6才の頃のことだと思うが、私はカタカナが少し読めた。マンさんは白髪のイガグリ頭で、相当の年寄りのような感じだった。いつもかわいがってもらっていて、日頃の外を歩く履物の藁草履を作ってもらっていたし、冬の外に出るときのワラグツ(深グツと言っていた)もマンさんに作ってもらっていた。
今思い出しても老人の感じだが、元気な人で、普通の牛より一回り大きい特牛(コットイと読み、仲付け用の牛)の飼育と交尾をさせる仕事を受け持っていた。ほかの人間では、この特牛を飼い、てなづけることができなかった。ムラのはずれに仲付け場というところがあって、そこでメス牛と特牛を番わせていた。そこは子供は行ってはならないところだったが、悪ガキがリーダーになって連れていき、こっそりのぞいたりしていた。