“資本”ってなんだ ピケティ議論の弱点

「資本」とは、私の最も気に入っている「新明解国語辞典」によると、「事業のもとになるお金と物質、もとで」と書かれている。では「もとで」とは「何かをする元として必要なもの。体が元手・商売の元手」とある。これをまとめると、「元手とは、オカネやモノ、カラダ、商売(マネジメント)のチエ(才覚)」ということになる。
<この元手はどうして作られたのか>
和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたと言って喜ばれているが、最も和食らしいのは「煮物料理」だ。そのルーツは、15000年ぐらい前に作られた煮物用の土器ではないかと思っている。それが日本人の、現代に受け継がれている、資本(モノ技術とチエ技術)の始まりとみてよかろう。それ以前から考えてもいいが、現代の私たちは、昔の人が蓄積してきた「資本(モノと知恵)」のお世話にならずには、一瞬たりとも生きることはできない。
<何かをする場合、具体的な仕事・活動をするための条件>
①どこかの場所の上にいなければならない。散歩をするには路がいる。昼寝をするにも家の中とか公園とかに居なければならない。道路づくりなどの労働の世話にはならず「自分一人の力で昼寝をする」と云っても、人跡未踏の山の中に行くには、どこかの道路を通らねばならん。
②食事をするには、食材・野菜、道具などを作ってきた多くの先人たちの世話になっている。もちろん食べものづくりの知恵の世話にもなっている。
③学問にしても、自分にできることは、多くの人たちの蓄積の上に、ほんの微細な追加をするだけだ。
④現代の世の中で、自分一人でできる場所は、南極の一部と、エベレスト山系の一部だけだろう。そこまで行ってからなら、「よしこれからオレ自身の力だけで、昼寝をするぞ」と宣言することができる。
<一人で出来ることとは何か>
人類の蓄積してきた道具・材料・知恵の世話にならずに、一人でできることはないだろうか。一つだけあると思う。それは自分自身の心の中だけでできること、それは「自分の心の持ちよう=自分の性格を変えること」だけだ。正確にいうと、自分自身を帰りことは、以子続けねばならない(一瞬たりとも)から、人類の蓄積(もとで)のお世話にならねばならないともいえるが、心の持ちようは一瞬で変えられるともいえる。
よく「性格を変えることは最もむづかしい」と言われるが、自分だけでできるのだから、一番楽にできることである。
私たちができることは、「人類の先祖」の汗と知恵の巨大な蓄積を活用させていただいて、楽な生き方を続けることだ。ピケティの議論も、近代の資本主義が生まれる以前の、「人類の根源的な“もとで”形成」の評価を、組み込んだ哲学う前提にしなければマネー主義の経済学にやられてしまう。