気分すっきり。会社と切れたから

少し変な夏のあいさつを出したら、いろいろ反応があった。私がボスをしていた時の社員が、 全員辞めてしまったのに、名義だけでも残っているのが苦しかった。
今になって考えると、60歳頃から自分の心臓が悪かったのではないかと思う。いわゆる不整脈の走りがあったのだと思う。指折り思い出して見ると、親父が大雪の朝、雪かきから家に戻ってきて、貧血のような感じで倒れたのが50代の終り頃だった。
体調に自信が持てなくて、社長と専務に代わってもらったのだ。一応のゆとり資金を残したのだから、所員全員と相談しながらやっていくだろうと思い込んでいた。まさか社長などが、私がボスだった頃から所員みんなで赤字を返し、蓄積してきたゆとり資金を、平然と赤字を出しながら報酬を受け取り、貢献していた所員みんなが辞めていくような状況になるとは想像できなかった。まあ、苦しいときに共に働いてくれたのに、止めていった人には機会があったら話をしよう。とにかく楽な気分になった。
関西では、もともと経営思想については日本の本家だから、こんな人間は少ない。少なくとも「善人そのもの」と云った感じの人ではなく、「なんかやるかもしれない、警戒せねば」といった「目を抜く」感じの人だけに気を使っていればよい。
まあ、いずれにしても全く想定外になっていまった。なぜみんなで相談しながらやろうといった雰囲気が出てこなかったのだろう。私が最初に倒産にあって、組合委員長に祭り上げられて、責任者になった時でも27歳ぐらいだから、全く心配していなかった。なぜみんなが辞めていくのか不思議だった。
山本七平の「江戸時代の先覚者たち」の中に、山片蟠桃からの引用として、秀吉の飢饉対策が書かれている。それは、「飢饉のときに逆にコメを買い占めた例である。このために米価が高騰して人びとが苦しみ、多くの人が彼を諌めたが、秀吉は『未也(いまだなり)。又買ベシ』とますます買わせる。『ツイニ米価大キマシテ民マスマスクルシム。諸士ハ粥ヲ食シ、諸人ハ粟稗ヲ食シ、粥ダニ食セザルニイタル』いう時に蔵を開き、徐々にコメを出して、次の収穫秋まで持ち伸ばしたので、餓死する人はいなかった、と云うはなしだ。
山本七平は、海保青陵・山片蟠桃・本田利明などが大阪を基地にした経済政策を評価している。つまり「 飢饉になったら、政策で価格を抑えるのではなく、コメを高く買えと云っている。安く買おうとすると、そこへは売りたくなくなるのでコメが集まらず、飢饉は拡大し結果的にコメも高くなる」という。財政対策でやるにしても、一層お金がかかるといっている。アダム・スミスとほぼ同時代に、「神の見えざる糸」と同じ学説を持った人が日本にいたのだ。