マネジメントしか考えなかったという失敗

「よかネット」と云う会社を、N社長とN専務に託したが、中小企業の代表取締役は、赤字の年には報酬(利益から出すという意味がある)がもらえないという原則を守ってくれなかったようだ。
この会社は、1984年10月、4千万円の不渡り手形の処理から再建せねばならなかった。当初は社長(私)に報酬を払える状態ではなかった。こわごわ払い出したのは5年後だ。13年後にはかなりのネットワーク(得意先)と、かなりの純益を蓄積して上記の二人に託したのだ。その経緯を自分の日記に残すために、以下のことを書いた。いずれ孫ぐらいが読んでくれるだろう。
一番の問題は、私がマネジメントだけ考えていて、リーダーシップにまで頭が回っていなかったことかもしれない。このマネジメント論は、改めて書く。

○「よかネット」の設立のいきさつ
1967.02  アルパック(地域計画建築研究所)京都。
この頃から、いつも「各地から来たメンバーが、将来は地元に帰って、“アルパック○○”として全国に事務所を作り、ネットワークを作ろう」といっていた。
1971.6頃 吹田事務所(国鉄駅前再開発事務所として設立、アルパック大阪の前身)
1972.9  大阪事務所を千里センターに置く。事務所を出す経費は、大阪Jで借り入れを起こし、本社に返した。以後自立経営で進めた。当時経理係として知人の奥さんを頼んでいたが、「うちの家計よりお金がない」といわれた。この頃、会社全体が苦しかった。確かこの頃一度、給与の遅配(全社の所員に)をやっている(2年後ぐらいに、同業のY社長に地下鉄のホームで会った時「糸乘君、君は遅配やっとるらしいやないか」と云われた。2年以上も“遅配”のウワサが世間を流れていたのかと思ってゾッとした。
1976.10  九州事務所。役員会での意見は、①一体の経営体とするには、九州までの管理体制ができていないから別会社にする。②九州支店として設立し、本社に担当責任者を置けば、自立採算にしなくても大丈夫だ、という意見があって一致せず、多数決で本社が責任を取るかたちの支店となる(4人対2人で決定)。Sが支店所長Dが本社の担当責任者。
1981.12  九州事務所は年々の赤字で、なおかつ年間の所長飲食費が600万円を超えていた。本社の経営状況も悪くなっており、役員会は激論となる。議論の末D君が、「責任が取れる人間がとるべきで、問題に対処できるのは糸乘しかないから、糸乘が責任を持って対応すべきだ」ということになって、糸乘が担当して処理し、赤字は全部本社に付け替えて閉鎖した。支店長以下で別会社。
1982.1  ㈱九州地域計画建築研究所としてS社長で再出発。資本金500万円は本社が全額出資。本社は口出しはしないが、たまに糸乘が行って相談に乗ることになった。
1984.9  4千万円の融通手形があることが分かり、当月内に不渡りになることが発覚。S社長以下全員で解決策・方針を協議。本社は81年時点で、かなり負担しているので、別会社だからそちらで考えるべきだという感じであった。
しかし現実には、不渡り手形になれば、その筋の連中に渡ることは必至で、保証人(S社長の実家・親元)もしくは株主である本社に取り立てに行くことが、すぐに起こる。
問題解決には、①自立して経営をするという覚悟がいる。②放置しておくと手形が回ってしまうから、とにかく取りかえさないと不渡りになり、保証人である親もとへ取り立てに行く。③もしそちらで取り立てられないと、すぐに京都本社へ行く。④世間からは、アルパックが不渡りを出したように言われるリスクがある。⑤とりあえず本社から融資して買い戻すには、アルパックの所員の納得が必要。しかし、所員に発表すると世間に知れてしまうことを覚悟せねばならんし、そうなるとかなりのウワサが広まるかもしれず、経営的にはかなりのリスクになる。
今までの経営上の問題点は、①とにかく受注量が人件費分にも満たない。②地道に良い仕事をし、一つひとつ黒字を出すことが前提。③建築設計はもうかるから、それを狙って逆転するというような態度が問題。④営業費を使って飲みに行っても、仕事が取れるということはない。⑤全員が本気になって、普通の会社になるべきだ。⑥建築設計が儲かるという安易な考えが、着実な経営を妨げている。本気になるためには、現実に儲かっていない設計部門はやめるべきだ。
I君が、「糸乘が九州へ来て、社長をやってくれ」と言い出した。
本社側としては、全員が納得するならば、九州の会社は整理して負債は本社で負担することになってもやむを得ないと考えていた。しかし組合や役員会が紛糾することになる。できれば九州の会社が再建され、赤字を解消して、自立していくことが望ましい。
<方針> ①糸乘が社長となって再建に取り組む。②嶋田は退任する。③社員は直接雇用のみとし、給与は当面10%下げる。④設計部門はやめるので、関連の契約社員臨時雇用者はやめてもらう。⑤負債は当面本社が保証人となり、糸乘が個人保証を入れるが、借入継続後は後者の個人保証のみとする。(とても家族に言えるような話ではない。表に出すと本社ともゴタゴタ話が起こるし、試練と思って「とにかく自分が被ってやってみよう」と考えた。まだ50歳過ぎだったから元気もあった。)
社名は㈱九州地域計画研究所とし、儲かりやすいとみんなが思ってしまう「建築設計部門」を外して“背水の陣”でいくことにした。この時のバランスシートでは、今会社を閉鎖したら(つまり、全員が辞める・逃げてしまったら)、継続中の仕事を引き継いで、経費ゼロで完了させても、3千万円ぐらいの損失が出ることになっていた。この会社が黒字化したら、本社は少なくとも3千万円得をする。
1984.10  “超弱気経営”で、全員が一致して営業に取り組み、宣伝活動も始めた。「アルパックニュースレター」に投稿して、それを営業活動に使わせてもらった。
1987年頃 一応赤字は解消の見込みが立った。
1989.1  糸乘が、公団賃貸へ入居。(アトピー性皮膚炎にかかって、新幹線での通勤が困難になっていた)
1989.7  糸乘社長の報酬を払い始める。
1992.10  支店の頃からの、最古参のN君が退職して、自分の会社を持った。
1993.1  独自の機関誌「よかネット」を発行し始める。
1993.6  岡山の地方シンクタンク協議会総会で講演
「地方シンクタンクの活用と自治体のあり方」 
これは、九州という土地柄の中で、自分の会社がどんな立ち位置を得たいか、地域の交流ポイントの役割を果たしたいこと、ネットワーク型の仕事をしたいこと、九州がどうなったらいいと思うか、について述べたものである。
1993.6  この頃事務所を表通りに移転。ネットワークの拠点になるようなところで、クライアントや友人などが立ち寄りやすいところへ。
「ひとネット・よかネットパーティー」を始める。
1997.6  糸乘は代表取締役を退任。体調が十分ではない気がして、「リーダーの条件は体が元気なこと」と云っている手前、かなりの蓄積ができた時点が辞める時だと思った。N君が退職した時から、なんとなく「九州の会社なんだから自分たちで経営をしたい、経営がやっていけるようになったら我々に任せてほしい」と思っているのではないかと気になりだしていた。
この時点のバランスシート上の株価計算黒字以外に、受注残の営業量の含み利益は一億円以上ぐらいあると想定できた。(この頃、現ナマで5千万ぐらい、受注残の営業仕事量で1億5千万以上〈契約期限が3月で、5月ごろにはほぼ完了している受注残のこと〉あった)これだけあれば、かなりゆとりを持って「10年や15年は続けられるだろう」と思った。
それでも、もっと蓄積を持ってスタートしたいのか、「退職金が3千万円余ありますが、どうされますか」と云ったので、経営意欲の現れだと思って、「1千万ぐらい減らしてくれてもいいよ」と答えた。
「今後、私を気にせず、自主的に経営してくれたらよい」と云って退任した。相談には乗って営業のサポートはする気でいた。
1998〜2001
この3年程は、ものすごい赤字続きで、蓄積は、ほゞ費消してしまったらしい。糸乘は、顧問と云うことなので、全く無視されたら口の出しようがないが、1〜2度「なぜそんなに急いで“よかネット”を叩き潰そうとするんだ」と抗議したが、「一生懸命やっています」と云いながらどんどん赤字になっていった。
“経営者は、赤字の時には報酬はもらえない”と云う常識モラルが欠けていたのではないか。
2000.6  この時点の主な在籍者 山田、山辺、伊藤、尾崎、澤谷、小田、佐伯
2000.6  ㈱よかネットに社名変更。
社名変更は、以前から言っていたことで、すでに九州では「よかネット」と云う機関誌名がしられているし、今後の自立経営のためにも、社名にした方がいいのではないかと云って奨めた。
もともと、九州事務所は、建築設計と云う社名を外し、地域づくりの提案やサポート、学研都市の提案や、九大移転のサポートなどのようなマネジメントとコーディネーターなどのサービス業に徹してやっていく。そのために、クライアントや知人たちが寄り付きやすい事務所にする。セミナーなどもやってネットワークを広げていく、という経営方針でやってきている。
2002.2  糸乘がよかネット退職、社会保険も切れる。
澤谷退職0204。尾崎退職0309。小田退職0304。
2003年頃には、山田代表取締役社長と山辺代表取締役専務以外の以前からのメンバーは、辞めてしまっていた。
        20130624          いとのりメモ
<その後のこと>
 今後の産業はどうなるのか。ずっと以前から、1980年頃(京都や大阪でホーリズムの勉強会をやっていた)からソフト化・サービス化の比率を、高めていく仕事の流れになると考えてきた。知的労働なら、生産性を何倍に高めることもできるが、見本に合わせたコピー型の仕事をやっていくのは、合理化の進んだ大企業や、低賃金の国に太刀打ちできない。九州の将来のためにも、知的サービス型の仕事をしていくしかないと考えた。それらがNIRAへの応募や、協同組合地域づくり九州の設立などだった。とにかく「九州で何がやれるのか」「九州という地域が稼ぐ仕事はなんだろう」ということに取り組みたかった。安心院の民宿や。鹿島のガタリンピック由布院温泉などは、土地柄と、知的サービス(心がけのサービス)を売り物にして成功している。
 しかし結局、地付きでない余所者では無理だと思った。地付きの人間を口説ききれなかった。ひょっとしてチャンスがあったとすれば「志摩町国民宿舎の再建」かな、とも思う。民間以上のサービスをして、福岡市の新住民を相手にすれば、公務員よりも高い給与が実現できたかもしれない。とはいえ、よかネットの再建との二本立ては無理だったかもしれない。
 結局、よかネットも、地域づくり九州も、知的サービス業に興味を持つ人はいなかった。私の九州人生は惨敗だったようだ。