津波防災は、“地域ぐるみの修学旅行”から

テレビや新聞で聞こえてくる防災計画は、大げさなコンクリートと、お金を使う話ばかりのように聞こえる。
東北の、あるいは福島の復興計画らしきものが、何を狙っているのかよくわからない。もともと、「人々の、家族の、街や集落の5年後・10年後」をみんなで話し合うことから始めねばならんのではないか。と云うことは、今それぞれの家族が、どんな経済状態にあるのか今後どんな助成が受けられるのか、が分からないと将来像はかけない。この事業は、都市再開発と同じ詩国だと思う。
私の再開発事業の中で経験したことを書いてみる。
1971年ごろ、300戸の立ち退きを含む再開発事業の計画に携わった。対象地区の人たちは、みんなが不安な気持ちでいた。民主団体対策会議は、「再開発絶対反対」と云っていた。しかし事情があって近々転居しなければならん人もいた。絶対反対だけでは困る。
やむを得ず、再開発事務所に相談に行って、「再開発の運動をつぶすとか、みんなの動きに反対と云うことではないが、事情があるので“本当は、いつごろ事業が動くのか。もし補償をしてもらえるとすればどんな評価か。正確でなくてもいい。誰にも絶対に喋らんから見当を聞かせてくれないか。ヨメはんに言わねばならんので、その辺のメモ用紙に書いてくれんか」と云ってメモ用紙の書付を持って帰った。
彼の感想は「この事業は、そんな“絶対反対”と云うほどひどいことを考えているわけではない」と云うことだった。つい友人に漏らすと、「お前はそんなメモをもらったいるのか。わしも貰おう」と云って事務所へ行く。「絶対に人には言わんから自分にもメモをくれ」と言い出す。この動きが交渉の進展に効果をもたらした。
岩手県だけの、ほんの少しだけ見て、話を聞いただけだが、一人ひとりの“安心”に近づくための対話がないのではないかと思った。
実は、東日本大震災津波被害の翌日ぐらいに、速く「名寄せ」の体制を組まねばならんのではないかと思った。ブログにもメモした。名寄せと云うのは個別の権利明細書のことだ。「生活再建」の基礎になるものだ。特に福島の人たちは、東電からどんな対応を受けているのだろうか。
心臓の不整脈でもたもたしている九州の人間が心配しなくても、東京には大勢の再開発実務経験者がいるから、連中から提案が出ているだろうと思った。とにかく仕事・ビジネスになるのだから。しかし現実はどうなっているのだろう。
今後防災に取り組む町や村、集落の人たちが、子供たちと一緒に修学旅行へ行ったら、“いざと云う時のための心覚え”となるだろう。