韓国・従軍慰安婦・仏教・韓国舞踊 1995年8月末のこと

[解題] 最近、従軍慰安婦問題が再燃してきている。それで思い出したのが10余年前のこの原稿である。当時も、この問題がピークに達していた。「外国へ船で行ける。それならオプションツアーで行きたい」と云う程度の気楽な旅のつもりでいた。そもそも、企画段階では従軍慰安婦問題が沸騰すると、誰も思っていなかった。
博多港から乗った高速船の中で、「政治的発言は控えよう」というメモが回ってきた。そんな空気の中で行われた交流会である。この交流の世話をしてくださった韓国側のKさんの「伝統文化について議論しよう」という挨拶にも、配慮が現れていた。私もあまり発言する気はなかったが、日本側の中にいた二人のA新聞OBの方の追従的発言が強いので、しゃべり出してしまった。
私は率直に話すタイプなので(気にはするが、空気は読まない)、「話の感じからすると、韓国の方々は、韓国女性だけを慰安婦にしていたと感じておられるのではないか。そうではなく、もともと日本人だったのです。そしてずっと日本人の方が多かったのです。だからよいとは思っているわけではない。私はもちろん慰安婦制度に賛成ではない。しかしこの問題は、戦争の中で起こってことなんです。その事情を無視して、今の平和な時の感覚で裁くことはできないと思う。戦争が起こらない世の中を作らねばならんと思うのです」といった。
 もう一つの「失われんとする一朝鮮建築のために」は、大分以前に書いていたが、関連があると思って同じ号に載せたものである。0013.05.26記。
下記の文は1995.11の「よかネット」より転載

韓国の人たちとの交流で“近くて遠い国”との距離がずっと近づいた
  ――SASの12人で行ったパーソナル交流体験記――
〈交流の話し合いは始めから緊張したテーマで始まってしまった〉
 「あなた方は従軍慰安婦の問題をどう思っているのですか」という言葉は、深刻な感じでいわれたわけではない。「やっぱり聞いてみたい」という気持ちを抑えかねて、つい出てしまったという雰囲気であった。しかし一瞬、私は息がつまった。それは日韓草の根交流会とでもいう場で、会話が始まった早々に出てきたのである。
 実のところ、“交流の対話”をすることになっていることは分かっていたが、「慰安婦問題もあるので、政治的な問題は避けよう」という申し合わせが回ってきていた。今後率直な交流が少しでも長く、深くなっていくことを願う私としても、その配慮に異存のあるはずもなかった。しかし、せめて、韓国国立中央博物館(旧朝鮮総督府)の取毀し問題ぐらいは、議論できないかなといった気分はもっていた。この件については、2〜3年前に自分の考えを書いたこともある。それにしても、韓国の人たちの素直な意見を聞いてみたいとは思っていた。
 ところが、のっけから、最もシビアな“慰安婦問題”が始まってしまった。
 今回の釜山への旅は、2泊3日とはいえ、博多港から船で行くということと、福岡の久保さんの友人のKさんのお世話で、観光で上面を撫でるようなことではない交流が期待されていた。その中に禅寺での精進料理をいただくことや、伝統の舞踊(サルプリ)の鑑賞、韓国の人たちとの交流があることになっていた。あるとはいっても、一般の観光旅行のようにそれぞれの中味が想像できるはずもなく、その“わからなさ”が、我々一行の楽しさを増幅していたのでもあった。
〈怯まず、臆せず、率直に本音で語り合おうと考えた〉
期待の第一段をなしていた対話交流は、スタートから厳しいものとなった。
 対話は韓国側6人、日本側6〜7人(まだ夕食から帰ってきていない人がいた。最後には12人)で始まった。全員の自己紹介の後、Kさんは「伝統文化について議論しよう」と話し始めたが、1〜2人話しているうちに、「(日本の)皆さんは従軍慰安婦の問題をどう思っているのですか」という質問が出た。率直な対話であれば、一番気になっていることを素直に語るということが、本来当然のことである。我々日本側の“申し合わせ”の甘さとやましさを痛感した。
 色々な意見が出た。正確ではないが、私の憶えている感じをあげてみる。
・民間ベースではなく、日本政府が対処すべきではないか。(韓)
・日本の政府レベルでやるべきと思う。(日)
・韓国政府も日本政府と同じ立場をとっているのではないか。(日)
慰安婦は韓国人だけでなく、日本人の農村からもたくさん出ていった。(日)
・日本人に対するより、韓国女性に対する方がひどかった。(日)
・日本は独自な文化がない。文字も技術も自前のものは全くなく、模倣である。韓国はすばらしいが日本はダメだ。(日) 
・今のままいくと日本はアジアで嫌われものになってしまうのではないか。(韓)
・韓国は男女平等で、姓も別姓となっているが、日本は差別が強く、今、別姓が議論されている。(韓)
・韓国の男女別姓は男系中心の社会で、女性が家系の中へ入れてもらえないからではないのか。(日)
・私の友人には、李ラインによって漁船がだ捕され、家族で暮らしにも困り、今でもそのことが忘れられないといっている人もいる。(日)
交流会は、総じて率直に話が進んだ。特に韓国側の主宰者である姜さん、2人の軍人の方(1人は大尉だときいた)は冷静で、学識の豊かさがうかがわれた(丸山真男の本を言及されて驚いた)。
 しかし、少しではあるが、日本人の中にもあるひとつの性癖が表れていたように思う。それは、時流とかその場の雰囲気に合わせた意見を出してしまいやすい性癖である。この時も、「日本が悪い、韓国の方が偉い」という態度でできるだけ平穏にといった感じもあった。私はこのような場では、状況にもよるが、できるだけ相手側の聞きにくいことを率直に話す方が礼儀になっていると思う。慰安婦問題について調べたわけでもないので、それほど発言権があるわけでもないが、「慰安婦は韓国人だけでなく、もとは日本人だった」ということは言っておくべきだと思った。
〈植民地支配という問題〉
 単に「ひどいことをした」とか「女性蔑視である」というような人道上の問題ではない。「韓国人慰安婦に対しては、日本人に対する以上にひどい扱いをした」といわれているが、これは植民地支配ということから、当然出てくることである。植民地の人権を本国より重視するような帝国主義国というものはありえない。もし仮に、人権や経済条件などで植民地側が優遇されるということがあれば、それはもはや「植民地支配」とはいわないのである。
 日露戦争まで、誠実で行儀よく、思いやりもある“武士道精神”をもった国として尊敬されていた日本が、なぜ弱いもの苛めや時流迎合をこととする変な国に変わってしまったのか、日本人として十分検証しておかねばならないと思う。
 ついでに言えば、京城で旧朝鮮総督府の建物を見たときに、うんざりしたことを思い出す。せめて、植民地支配をするなら(誤解されやすい言い方であるが)、もっと日本文化や建築様式の押しつけをすればよいとさえ思ってしまった。当時の日本が、かの国の人々が最も大切に思っていた場所に、大事にしていた光化門を取り除くまでして建てた総督府は、単に重々しい尊大さ以外には「俺の方が欧米のコピーの仕方はうまいぞ」といった程度の建物でしかない。全く情けない限りだと思った。そもそも日本は植民地を持つこと自体間違っていたのである。
〈特攻隊のこと〉
 日韓交流会は通訳の時間もあるので、いろいろなことを思い出せてくれた。そのひとつが、前記の旧朝鮮総督府の問題で、もうひとつが太平洋戦争末期の特攻隊のことである。
 数年前、ある会のエクスカーションで、鹿児島県の知覧町を訪れた。ここは沖縄への特攻隊発進基地のあったところで、記念館があって、多くの資料が展示されている。大勢の集団行動であったので、ほとんど通りすぎたといっていいくらいの時間であったが、資料の中に特攻隊の発進基地が日本からだけでなかったことが出ていた。
 このことがずっと気になっていた。つまり、「台湾や韓国の若者も特攻隊にかり出されていたのではないか」という疑いについてである。今年の夏やっと再訪して確かめることができた。
 結論から言うと、知覧町で確かめたことは、①発進基地は鹿児島と台湾で、飛び立った空港はたくさんある。②知覧町で発進させるために特攻隊が各地で編成されたのだが、それには日本の内地(関東方面)だけでなく、朝鮮(連浦、平壌)や満州(中国の東北)などが含まれていた。気になって「台湾や朝鮮の若者も特攻隊員になっていたのではないか」と質問してみたが、「特攻隊として沖縄へ向けて(アメリカ軍目懸けて)突撃していったのは日本人(内地人)だけだった」という説明であった。 このことについては、もっと調べてみる必要があると思ったが、仮に特攻隊に採用されなかったからといって、民主的植民地支配だったということではなかろう。逆に心配のあまり、差別したということかもしれない。
 今まで、日本と韓国や中国について考えたいたことがいろいろ思い出せれる対話交流会であった。こんな機会を与えていただいたことに感謝している。〈韓国の禅宗の精進料理と茶会〉
 難しいことばかり書き続けてきたが、今回の旅にはKさんとそのグループの人たちによって、極めて楽しい時間が用意されていた。そのひとつが三大名刹のひとつである通度寺の塔頭における精進料理と茶会である。
 現在の日本の精進料理は「食事をいただくこと自体が精進である」という思想が消えてしまっていて、単に材料に肉や魚が使っていないという精進材料料理になってしまっているが、ここでいただいた料理は精進そのものであった。以前京都の禅寺で一晩のおつとめをし、朝早く起きて廊下の拭き掃除をし、坐禅・読経をしたあとでいただいた朝食は、精進をする食事であった。しかし、泗溟庵でいただいた料理は更に念が入っていた。
 まず、全員清水で手を洗い清めて、六角のお堂に上がって坐禅を組み、用意されていた白布につつまれた四つの椀を揃えて、それに精進料理を取り分ける。それを静かにいただき、食べ終わると鍋を洗った湯をひとつの椀にもらって、それぞれの椀を洗い、最後にそれを飲む。次に今度は水を椀にうけて、それで手、椀などを洗い(水は大きい器に戻す)、きれいに拭いて元通りに包みなおして精進が終わるのである。
 この会食の後、私達は通度寺のあたりを廻っていたが、その間に再び姜さんたちは茶会の用意をしてくれていた。茶は香ばしい焙じ茶のようであった。日本の茶会は抹茶で行われているが、「ひょっとすると元は目の前に見るようなものだったのかもしれんなあ」と思ったりしていた。写真で見ていただいくように、作法は全く韓国流の立て膝である。私たちも茶をいただき濃密な時間は過ぎた。
〈古典舞踊・サルプリを見る〉
 これには姜さんの骨折りによるいろんないきさつがあったに違いない。とにかく、なぜ私たちがこれほどまでに親しく韓国の文化に触れさせていただいたのかよく解らないが、すばらしい舞であった。舞って見せてくれたのは呉さんという方で、智里山(韓国の霊山)の麓から8時間もかけて(交通事情も悪かったようだ)我々のために来ていただいたのであった。舞の始まる前に、私は「写真を撮ってもよいか」と尋ねた。「ストロボはダメでしょう」、「いいんじゃないですか」ということにはなったが、できるだけストロボ抜きで写そうと思った。表紙に写してあるのは、その写真である。この舞についての解説は避けるが、この写真は私がシャッターチャンスを伺いながら、ゆっくり撮ったものである。その時、私が感じたことを想像していただきたい。
〈韓国と日本の文化の違い〉
 まだ沢山の印象がある。たった48時間しかいなかった韓国で、これだけの濃度な印象を与えていただいた姜さんには感謝の方法が思いつかない。たくさんの印象のひとつが通度寺の勤行である。私は臨済宗大徳寺派の寺の檀家で育ったので、雰囲気は似ているなと思うと同時に、ひょっとしたらこんな風が本来の形かなとも思った。もう一度ぜひと思うのは、この寺の夕方の勤行とサルプリである。通度寺の勤行は夕方6時半に行けば毎日やっているということなので、行けば出会えるということではある。
 文化ということでいえば、私は韓国と日本は相当違うと思ってきている。通度寺までの一連の時間の経過の中で、逆に、仏教という面で見れば、意外にも近いのかなと感じたぐらいである。同行した人の中にも、「日本の文化はもともと中国、韓国から流れてきたものであって、そのコピーである」というようなことをいう人もいた。私は「そうではない」と思っていた。
 茶会の後で、高名な韓国の陶芸家の窯を訪ねた。そこで井戸茶碗を見ながら、柳宗悦の「喜左衛門井戸を見る」という文章を思い出していた。宗悦の見方は、美は人工で造るだけでなく、自然の力、あるいは日常の中で使われているような、自然の営みの中で、一層醸し出されていくものだというような態度である。これについては要約をしかねるのでぜひ原文を読んでいただきたい。(「柳宗悦民藝紀行」岩波文庫版)
 一言だけつけ加えると、井戸茶碗などというものは百姓がドブロクを飲んだり、飯茶碗として使っていたもので、その結果できあがった「美しさ」を日本では大きく評価するが、中国や朝鮮陶磁はそうではなかった。日本人は神道の影響なのか、あるいは神道さえも古来の日本人の影響で形成されたというべきなのか、“じねん”の力を大切にしたいと考えているように思う。
 文化ということでは、最もやりきれない思いをしているのは、韓国国立中央博物館として使われていた旧朝鮮総督府の建物である。これは韓国の美しい建物を毀した上で、あたかも「欧米のコピーなら我々の方が上手だぞ」とふんぞり返っているような感じしか与えない。日本人として恥ずかしい限りだ(これについては別に柳宗悦にふれて書いた文章があるので掲載したい)。
 それと比べると、Kさんの喫茶店はよかった。申し訳ないことではあるが、「Kさんが喫茶店をやっておられるので、そこで少し休ませていただこうか」といわれたとき、ついつい日本人のインテリが作りそうな欧米スタイルの喫茶店を考えてしまった。ところが、韓国の茶を飲むところであったし、その茶もうまかった。
 まだまだ書きたいことはあるが、今回お世話いただいた方々に感謝しながら筆をおく。
〈追記〉「空のかなたに・特攻おばさんの回想」という本が、福岡の葦書房から出ていて、その冒頭に朝鮮半島出身の特攻隊員のことがでている。光山文博小尉(本名卓庚鉉)である。この本に出身地の内訳の中で、朝鮮11名、台湾1名が記載されている。私の平和記念館で聞いた話と食い違っている。(糸乘貞喜)