水俣福岡展

水俣の水銀中毒で、手が曲がり、首が曲がり、顔が曲がり、声が出なくて唸っている写真があった。チッソ工場の前で座り込んでいる人たちの悲しい、力は弱くても迫力のある写真があった。そして歩いていくと、年々の「水俣公害認定患者と日認定患者」の人数を、虫ピンに色を付けて表示していた.
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やりきれない気分が胸に詰まってくると同時に、カンボジアで見た、ポルポト軍に虐殺された人々の写真が並んだ展示館を思い出した。もちろんこの患者は死んだ人ではない。一緒に行ったMさんにその思いを語りながら展示を見ていると、出口の辺りに円形の写真展示室があった。これは亡くなった人々の写真だったと思う。不確かなのは、もう見続ける気力がなくて、写真を一枚撮っただけだった。
気になって、初めて水俣に出かけたのは90年バブルの前だったように思う。
朝ラジオのニュースで、東海村の原子炉で、事故による被曝者が30人になり、最大の人数になったといっていた。と云うことは、福島の原発では被爆者はいなかったのか。
水俣のことを思うと、なぜ東電本社の前で、毎日々々デモがないのか、福島や東京の人たちは怒っていないのか、気になった。