[孫]戦争体験の一番厳しいのは戦後にやってきた

 ある日の午後、「先生が全部抜け出して映画を見に行ったぞ」という声が流れてきた。戦争後の11月頃だったような記憶がある。ヒョッとすると、翌年だったかもしてない。どこのクラスにも情報通の生徒がいると思うが、彼が「今日は午後自習だぞ。先生はみんなでバタ公(ハンドルで操縦する自動三輪車)に乗って、町の映画館へ行ったぞ」といっていた。
 つい2、3ヶ月前の戦争中には、われわれ小学2、3年生に、ビンタばかりやっていた16-7才の担任の女先生(今の高校2、3年生に当たる)が、我々に自習をするようにと言って(直接いわずにお気に入りの子に伝言させて)、午後から学校を抜け出してバタバタに乗って町の映画館に行ってしまった。
 この女の先生は、自分でビンタを張るのは手が痛いからといって、お気に入りの子を代理ビンタ係にしたり、気に入らない子に机の間を走ってくるようにいって、先生の近くに来たときに足を出して転がしたりしていた。小学3年生も、日本のビンタ社会の末端だった。この教師によるリンチを眺めさせられるのは、子供心(ではないな。もう十分に大人以上の世界だった)にも、最も耐え難い時だった。私どもは、何時も先生の機嫌と眼差しの方向に注意する、十分な大人の感覚で生きていた。
 肥タンゴに学校の便所からくみ取って、500メートルほど先の山の畑に行くよりも、恐怖の授業時間の方がイヤだった。もちろん機嫌のいい日の方が多かったのではあるが。
 先生は、すぐに「正義」を取り替えることが出来たかも知れないが、私は、先生方の急変を理解できなかった。「正義」は嫌いだ。