「なんでわしらがビールを飲めるんやろう。誰が働いてくれているんやろうか」

大阪の吹田駅前の再開発事業の責任者になって、1971年に吹田事務所を作ったが、1972年、千里中央センタービルに大阪事務所を持った。ここが再開発事業と近畿圏整備本部の仕事、大阪府や住宅公団、兵庫県の仕事の拠点になった。この事務所は極めて便利だった。大阪の中心部とは離れているようだが、地下鉄千里センターの駅につながる事務所だった。
それ以上に便利なのは、大丸ピーコック(ここがチリ紙騒動の発火点)、阪急デパートがあって食べ物を買うには便利だった。
夏の終わり頃の午後だったと思うが、事務所で一週間分の仕事の打ち合わせをする“土曜日の午前中のミーティング”を終えた後で、大丸ピーコックで食べ物を仕入れてきて、前の芝生で缶ビールを飲みながら「なぜ我々のようなまともな就職先に巡り合えなかった野郎どもが、ビールを呑める身分になっているのか」が不思議だった。「誰が働いてくれているんやろ」という言葉は、こんな我々のようなしがないコンサルタントがそれほど稼げるわけもなく、「商社などが外国から稼いで」それが働きの悪いわれわれに回ってきているのではないか、という“申し訳ないような気分”だった(35〜6歳ごろ)。
結局のところ、日本の国が、後進国の労働者(生産維持費の安い人)を安く使って利益率を上げているのだ。マルクスは、正当な賃金はその生産維持費だといっているし、安い国の労働者は安くて当然なのだ。
とは言え、8年間大学に行ってやっと就職できた所員や、私のようにオチコボレの仕事人は、就職後も、梅田の裏通りの「関東煮屋」ぐらいしか行けなかった。それが急にビールが飲めるようになったのだ。日本全体が豊かになっていく中で、われわれも「おこぼれ」にあづかっていたわけだ。