文部省から自立した娘たちのこと

前回、体罰と云う強制は、教育と無関係であるということを書くために、自立した娘たちのことを書いた。ところがその二人は母親になっているが「コメント」を書き込んでくれていた。結構うれしいものだが、どう返事ができるのか、パソコンと云う仕組みが分からんので、もっと書くことにする。
いうまでもなく、同年輩の人は知っていることだと思うが、私が高校生時分にペスタロッチの「教えるとは、共に学ぶこと」と云う言葉が聞かされた。格好良すぎて好きな言葉ではないので、気にはなったが、前回は引用しなかった。
体罰とか、強制と云うことは、「自分で考えて、工夫をして練習しよう」というパッションがない。工夫と努力抜きで何かができるとか、オリンピックで勝てるなどと云うことはないだろう。
小学校5年の時だったか、弟二人を連れた代用教員の先生が来た。その先生が「みんなひとり一つの研究をして来い」といった。「何でも、自分で見つけて観察をして先生に説明せよ」と云うことだったが、全く見当がつかなかった。
2〜3日後に、クラスメイトが「蜘蛛の巣を見ると、こんな風になってて面白い」と云ったことを先生に告げた。「面白い合格だ」と認められた。私は自分のほうが気が付くと思っていたのに、先を越されて俄然焦った。
「身近でいいんだ、身近だ」と思っているうちに、ヒョイと自分の指を見た。指紋が見えた。これの観察メモを書いた。「合格」と云われたが、蜘蛛の巣のほうがおもしろそうだったので、今でも覚えているのだろう。30人のクラスで、二人でけで、終わってしまったように思う。
こんないい加減な教育が、「オチコボレ流」の私には合っていたように思う。