研究とは何か、蜘蛛の巣と指紋

毎朝、新聞を取りに行くとき、ポストまでの間の両側は雑木が茂っている。車が一台以上通れるだけの幅があるのだが、それぐらいの拡がりが蜘蛛にとってエモノを待ち伏せするために丁度いい間隔なのか、一番多い時は高いところや生け垣などの巣を合わせると、20~30ぐらい蜘蛛の巣があるように思う。虫を取ってくれているのだから役に立っているのだが。
だから新聞を取りに行くときは帽子をかぶり、小竹で作った杖やステッキをもって振り回しながら歩くことになる。何も知らない人が見たら、頭がおかしいと思うかもしれん。
そんなことを繰り返していて気が付いたことは、タテ糸にはネバネバがついていなくてヨコ糸だけが虫取りの役割をしていることだ。だから、歩くときヨコ糸が付くと困るように思うがそうではない。ヨコ糸は何にでもつくので蜘蛛の糸同士でもくっつく。何かにつければ取りやすい。困るのは縦位置の方で、ものすごく細いので何にでもまとわりつく。帽子を忘れて蜘蛛の巣に引っ掛かると、髪の毛についた縦糸の部分がなかなか取れず、ずいぶん気分が悪くなる。

小学校に行く前の頃、蜘蛛の巣との最初のかかわりは、セミ取りの網を作ることだった。竹の棒の先に針金で輪を作って、それに蜘蛛の巣を探しては付けて回った。家の軒下とか電柱との間のクモは、困っていたかもしれないが、蜘蛛に関心があったわけではない。セミをとっても、結局ニワトリにやっていたぐらいだ。
大層気になりだしたのは、小学4年か5年の時のことだ。Y先生が突然「宿題を出すからみんな“研究”をして来い。自分で考えついたことはなんでもいいから、よく見て考えてきて報告せよ」と言った。「研究」なんて言葉は聞いたこともない。大体、変なことには得意だと思っていたので、なんとか一番になりたいとは思ったが、全く見当がつかない。
ところが翌日だったかに、エイジが手を挙げた、「蜘蛛の巣を見るとイトの形が面白い」というようなことをいったら、「ヨシ合格」と先生が言った。私は蜘蛛の巣なんて、セミ取りの道具ぐらいにしか見ておらず、詳しく見たこともなかった。
私は「なるほど気を付けてみると面白い。こんなことでも研究というのかな」と思ったが、俄然、自分は焦り始めた。周囲を見ても毎日見ているものばかりだし、何も面白そうなものはない。焦りまくったが、また一日二日たった。その時ひょっと手を見ると指紋が見えた。ちょっとレベルが低そうに思ったが、指紋の形や指の違いなどを見て研究の報告とした。「よし合格」と先生は云ってくれたが、蜘蛛の巣よりレベルが低いように感じた。クラス30人のうち、この研究に答えたのは二人だけで、その後は先生も忘れてしまった、というようなことになった。

思い起こしてみると、蜘蛛の巣に対するこだわりは多かったが、指紋のことのこだわったという記憶はない。結局のところ、私は長いことこだわるような「思い付き」の能力のない“オチコボレ”だったということらしい。
このことを、80歳の小学校同窓会の時、エイジと同部屋になったので、ちょっと話してみた。彼は覚えていないような感じだった。
しかし私にとっては“観察”ということに対する自意識の芽生えだったかもしれない。だから今でも”蜘蛛の巣”が気になるのだろう。毎年12月の半ばごろまで蜘蛛の巣があったような気がするが、今年は11月半ばごろから見かけない。冬が早く来るということを知っていたのかな。

ついでにY先生のことを書くと、この先生は中学を卒業するとすぐ(小学が6年、中学が5年なので18才ぐらい)教師としてこられた。戦争が終わったころは日本中貧しかったが、この先生は弟を二人連れていた。住む部屋は学校についていたが、兄弟三人で衣料や食べ物も大変だったと思う。ある時母親が「先生の所へジャガイモを持っていけ」と言ってリュックサックにいっぱい入れた。「人に見られんように朝早く行け」と言われて、朝5時ごろ学校まで(800m)歩いて行った。
今から考えても、17〜8才ぐらいで弟をつれて暮らしていくのは大変だったと思う。先生の授業は少し変わっていた。12月はまだストーブを焚かなかったと思うが、みんなが寒そうにしていると、授業を止めて講堂(体育館を兼ねていた)で、オシクラマンジュウをした。突然、研究などと云いだす面白い先生だった。