”あるもの生かす主義”の地域づくり  何の資源もない町でも、自分たちと縁のある都市の人々とのつながりを 生かせば

仕事の依頼があり、話を聞きに出かけてモタモタと始めた時の話

 

何の資源もない町でも、自分たちと縁のある都市の人々とのつながりを生かせば、地域づくりができるのではないか ―-ネットワーク型兵庫県美方町・坂本助役の奮闘(よかネット2001.3、ひともうけ通信 4)

 

私にとっては貴重な思い出であり、経験でもあるこの話は、かなり年月も経っているので、書くとしたら坂本さんと一度会って話をしなけりゃならんと思っていた。そのため去年の夏、美方町を訪れた。

会ったのではあるが積もる話もあり、1984年の計画のおさらいにまでにはいたらなかった。したがって、以下は私の主観である。もうひとつ付け加えると、この仕事で 520万円の見積もりを出した。人口 3,000人で割ると、一人当たり 1,700円以上になる。だから断られると思っていた。ところが「お願いします」といわれて、逆に私の方から「高いでしょう。断らないかんのじゃないですか」といった。しかし、坂本総務課長(後に助役)は「いる金なんでしょう」といわれた。私は「ここまで何度も 1~2 人で来ると、必要な金です」といった。それなら、ということで契約した。このすっきりした対応はうれしかった。

  • 何もないんだったら、都市の人たちと「縁=つながりをつくることから、始めてみませんか」といってみた

これからの町をどうするかについて、はじめて話し合ったとき、私はこの町の特徴と特産品について聞いてみた。坂本さんは「それが困るんだなあ」というばかりで、「何の特徴もない、物産は何もない」ということを強調するだけで、“ない”ことに執着しているようだった。「それがあるなら高い金をコンサルに出したりはせん」と云いかねない顔つきだった。

長い話し合いの後で、私は「それなら二番目からやつでみますか」といってみた。二番目というのは、私が考えていた“地域づくりの三原則"、のひとつ「つながりつくる=ネットワークづくり」のことである。そして「商店街で、昔からの老舗でも“親戚も寄りつかなくなったら潰れる"といいますよ。この際その逆の“親戚に頼って地域づくりをする”というやり方をやってみますか」といってみた。親戒というのはこの町の出身者、本籍を残している人、この町に緑のある人、そしてこれらの人たちの知り合いの人ということである。さしづめ私もその一人になった。

結局、まちづくりの基本を「都市との縁=ネットワークづくり」におくことにした。

具体的には「ふるさと会員制度」を作って、会員にふるさと産品を送る仕組みである(年会費は15、000円で、年3囲ふるさとの品を送る)。そして会員の勧誘については、“緑を大切に”を絶対条件にした。方法は次の通りである。

①町民に用紙を配って、ダイレクトメールを送る人の住所氏名を記入じてもらい、「そこに○○集落の○○さんの紹介で…… と書いたダイレクトメールを送る。

②町とつながりのある人(例えば私)の推薦で「○○さんの……」として送る。

③新聞や情報誌などの、一過性になりやすい媒体は、絶対に使わない。

④送る産品は、つまらないように見えても、絶対に地元のもののみとする。聞に合わせで他地区のものを入れたりしない。

⑤現在は核家族化や単身世帯が増えているので、5kgの柿とか5kgの餅などといった「量で安いからトクだ]と感じさせるようなことはしない。量は少なめにしておく。宅配便の運賃が割高なようでも、余るほど送ると、主婦はもったいないと思い、ほかすようなことになるとひどく損をしたように思う。

⑥送る品で舗けることは絶対にしない。この仕事は、もともと「身内のようになってもらう人を増やしたい」ということであるから、この会員制度によるふるさと産品送りは、一種の「手紙」である。手紙にモノがついてはいるが、そのお金は会員からいただいている。つまり、「手紙の郵送代を相手に請求することは礼儀に反する」という考え方である。

⑦赤字は役場で負担する。地域に人が来て、それでにぎわいが増え、産業振興になればいいので、そのための「効果のある損」をするのが公共(役場)の仕事である。役場は、結果としで地元の人が儲ければ役割を果たしたことになる。

@よく「来町者には民宿が○割引、産品○割引」 などという例があるが、安いから行く、買うという人は先ずいない。それで太刀打ちをする立地条件が無いから、こんな仕組みを作るのである。良いもてなし、良い品物で納得していただかねばならない。

⑨会員には、町の広報誌はもちろん、四季折々の案内なども送るようにして、町と心のつながりができるようにする。

こんな考え方で、“ふるさと会員制度”に取り組んだ。はじめのうちは「恥ずかしいことに、本当に送るモノがない」などといいながら、竹を割っただけの足踏みを入れたりした。一応三回送ることができた。送るモノがなくて困るということは、なかなか便利なことでもある。 いつも心配していると、何かが出てきた。

 ・縁があると人は安心し、縁の増幅運動が起こる。そして強固なネットワークができ、自然に広がりを創りだす

よく考えてみると、これはずるい方法である。ダイレクトメールをもらった人は、ふるさとの人からの話であれば、懐かしいし、断る気にはならない。第1回は、276世帯からの申し込みがあった。そして第1便を送ると、礼状や電話が、名簿に親戚などの住所氏名を書いただけの人の家に届いた。その頃には名簿を出したことも忘れていることが多く、急に礼を言われてびっくりする家も多かった。

普段から役場のやる仕事は、文句をつけても「ほめる」という習慣はないのに、この件では何度も礼状が届いたりするので、「この頃は役場も、チョットはいいことをするなあ」と云う人もでてきた。農村の人たちみんなでやっている仕事になっていたのだ。

15、000円は決して安い金額ではない。どんなモノを入れでも、モノとして考えると、送られてきたモノは、もともと全て必要なモノではない。しかし、それが田舎の心=気持ちとして届けられ、受け取るなら、全て思いの籠ったモノになる。

そのことを大切にするために、決してモノを売るという考えは持たないようにした。モノを売って金を稼ぐのが目的なら、こんなに効率の悪い方法はない。この“ふるさと便”は、縁をつなぐための手紙であり、小包の中身は縁者に負担してもらっていると考えた。つまり、モノ売りではなく、ふるさとのこころを届ける交流である。ふるさとの気持ちを伝えるための品物選びは、「心のサービス=知的サービス」であった。

一度こんなこともあった。私の家に送ってきた餡いり餅が傷んでいた。私は気にもとめなかったが、事務所にでてみると、「坂本さんから電話がありましたよ」と言っていた。ほどなく坂本さんから再度電話があり「実は餅が腐っとりましてな、糸乗さんの紹介していただいたとこに、電話してもらえませんか」と言うことであった。まさか傷んだ餅まで食うことはあるまいと思ったが、一応、2、3電話をした。もちろん;食べた人はいなかったが、なかには「糸乗さん、今どき防腐剤も入れず、腐るようなもんを送ってくれとんですな」と感心している人もいた。縁を大切にするつき合いがあれば、:アクシデントでさえも良循環につながる。

 ・縁をつむぐ「ふるさと会」と、縁を壊すふるさと会

聞くところによると、「ふるさと会員制度」というものは大体の相場が決まっていた。初年度は、投所も力を入れるし、新聞や情報誌などにも載せてもらって、「安くて、新鮮な、ふるさとの品々をお届けします」と言う宣伝にのって、一応300世帯ぐらいが会員になる。

と同時に、担当する職員や課長さんが「タダで情報誌や新聞を宣伝に使ってやった。これで○○円ぐらいの宣伝費の節約になった。その上、○○円の売り上け'だぞ」と云って手柄顔をする例もある。

ところが2 年目には「1~2 万円も振り込んでも、それほどうまいモノが来るわけでもないし、 必要なモノでもない。 かえって割高だし、やめようか」 となり、100~ 150人ぐらいに減る。 3 年目には30~ 50人ぐらいに減り、地元の人も熱意を失って「損ばかりだ」などといいながらやめてしまう、:ということが相場らしい。

美方町は、モノ売り業としてやったのではないので、縁は拡がっていった。7,8年経っと、650人ぐらいの会員数になり、九州の私に「もう手に負えんのですが、断ってもいいんでしょうか」という電話がかかってきた。「無理をすると、かえって地元が参ってしまいますから、断ったらいいですよ」と私は答えた。このことも、「縁を大切に」で活動していたことの裏付けになっていると思う。

650人でなぜ大変かと思われるかもしれないので、簡単に美方町の紹介をしておく。美方町は人口3,000人に満たない、国道からも鉄道からも離れた行き止まりで、平地がほとんどない山奥の谷筋の村である。私が初めて行ったとき、せめて「村」なら特色がひとつ増えるのに、と思った。なぜ「町」かというと、一度二つの村が合併して町になったのだが、市街地のある町に近い方の旧村が、そちらと合併する気になって、分町して逃げてしまったので、山奥の村が「町」とじて取り残されてしまったのである。 こんなところで、650世帯の会員というのは、人口が2倍になったようなものである。このごろは「交流入口」 などという言葉があるが、このムラではそんな冷たい関係ではなく、“縁”だと思っていた。こんな縁を求める熱意は、どこかで誰かが見ているものである。

  • 企業誘致しなくても、過疎地に押し掛けてくることもある

「ふるさと活動」から2,3年経った頃だと思うが、大阪府下のT町から打診があった。事情はこうである。町村長会の席で、T町の町長が隣の人に「うちは、高いとこといっても、海抜10メートルぐらいしかないし、人口が増えてゆとりのある場がなくってしまっているので、何とか町民に山や自然を持たせたいと思っているんですが……」とつぶやいた。その時、話を聞いた隣席の町長さんが「美方町なら、山もあるし、評判もいいから相談に乗ってくれるかも知れん」といったらしい。そこで、2,3度行き来をして話がまとまり「T町々民の家」が建った。コネがなくても、直接宣伝が届かなくても、努力していると誰かが見ていてくれて、幸運が舞い込むというような、波及効果さえ起こることがある。どれが、どの効果を生んだのかは分からないが、当時、年間25,000人ぐらいだった来町者が、数年で15万人ぐらいになった。「l0年後に10万人」という目標を超えてしまった。 産業としても、第一位の荒利を稼ぐ仕事になっている。

・ 地域づくりは、二本柱(にぎわいつくる、産業起こす)と、三原則(①あるモノ生かす、②つながりつくる、③持ち込む=導入する)

「縁=つながり」のもとになった考えが、どうして出てきたのかについで、簡単に触れておきたい。

美方町の取り組みに先立だって、但馬の中核工業団地計画の基本構想1973)、この近くのH町の総合計画(1978)、但馬地域のモデル定住圏計画(1979) などの仕事をさせていただき、貴重な経験を得ていた。当時は地方の計画といえば、とにもかくにも「工場誘致」だったが、実際にはそれのみでは前ヘ進まないことが分かつてきていた。

そのことを書いたのが昭和50年の「但馬のメシとオカズ」である。つまり、地域づくりにはメシ(産業)だけでなくオカズ(文化)がいるという話であった。 このことを最も典型的に示したのが、定住圏計画のための高校生のアンケートだった。

これは但馬の高校二年生を対象に、自分の町の住みよさや住み続け意識に基づく定住意識を訊ねたものである。その中で最も相関度の高かった項目は、「自分の町の特色やシシボルがはっきりしていて、他町からも知られている」ということであった。つまり「都会などに出たときに、自分のふるさとのことが説明しやすい」とか、「自分の町が有名だ」とかいったことが、産業や雇用よりも若い人たちの定住意識を支えていたのである。

この年もうひとつ面白いことがあった。10月初めの朝、大阪事務所に出勤してみると、美方町の仕事を一緒に担当していた藤田君が寄ってきて「糸乘さん、糸乘さんの話がマンガになっていますよ」といった。そして私に示したのは「週刊アクション」に載っていた「いしいひさいち」の4コママンガであった。もちろん「但馬のメシとオカズ」を読んで書いたのではなく、いしいひざいちの感性が画かせたのである。

このマンガの1コマ目では、殿さまに家来が、「山田城の落城」を告げている。2コマ自は、殿さまが「そんなバカな」 といっている。3コマ目では殿さまが「あの城には、3年分の兵糧米を蓄えてあったのだぞ。少々の兵糧攻めではビクともせぬはずだぞ」と云います。④コマ目では、連絡してきた家来が「オカズがなくなったとか」といい、殿さまがズッコケル、という話である。  

美方町で坂本さんにいったのは、「あるモノ生かす」のモノがないということなので、「つながり」からやってみよう、である。私はこの方法が何となくうまくいきそうに思っていた。このムラはなかなかホスピタリティーのあるところで、神戸市内の学童保育の人たちが毎年訪れていて、十日間ぐらいの合宿をやったりしていたが、豊かな自然と心に対する信頼は強かった。

ひとつだけ心配はあった。それは民宿を増やして産業にしようとするあまり、全ての民宿で出す料理のための「給食センター」を作ろうとしていることであった。幸運にも、この試みは建物の建築途中で倒産状態になっていたので、私は黙っていた。大量生産社会ではなく、ネットワーク社会を目指しているのに、こういう勘違いも起こる。

  • もうひとつの町では、悶着を起こしていた

ほとんど同じ頃、同じ県下で総合計商の仕事を受けていた。こちらは人口25,000人余で、契約金は250万円ぐらいだったように思う。若手の職員で構成をしたプロジヱクトチームの会議のサポートをする仕事であったが、いつも出席が悪くひどい時にはー人も来ないことがあった。ついにたまりかねて、私は文句を言ったことがある。わざわざ遠くから来ているのに、一日が無駄になるからである。その時、企画課長さんの言われた言葉が今も忘れられない。「コンサルというのは、金をもらっているのだから、出席したくなるような会議をし、出席者がいい発言ができるような準備をし、やりたくなるような計画案を出し、立派な結論が出るように持っていかなきゃならんのではないか」といわれた。

課長さんも頭にきていたのかもしれないが、私も頭にきた。ひょっとすると、「そういうことなら、お金が一ケタか二ケタ少ない」と云ったかもしれない。この時のメンバーは、主体的に考える人は殆どいなくて、たまに出席しても、お客さんとしてだった。

ところが最近もこれほどではないが、お客様型の役場の職員がいる会議に出て驚いたことがある。5年後、10年後には、町村の財政は半減しているかも分からないし、自治体もリストラは避けられないかも知れないのに……。

  • 実は、私も経営の方向の分からない会社を抱えて、行き詰まっていた。これからは“ネットワーク社会"になるという確信だけで、会社の再建に取り組んでいた

坂本さんに「この野郎我々に、いい加減なことをやらせていたんだな」と思われてはいけないので、少し白状をする。同じ年、1984年の9月末、立ち行かなくなった会社の負債に個人保証を入れて、背水の陣をしいて九州に来た。九州にコネがあるわけでもなく、本当のところ、どうしたら仕事がもらえるのか当てがあるわけではなかった。とにかく「多くの人とつながるネットワークを作ろう。不断に広げよう。大切にしよう。それでダメなら仕方がない」 と言うだけの経営方針だった。仕事での提案も「ソフト化・サービス化社会のなかでのネットワークを目指す」だった。これもなかなか理解を得るのは難しかった。

しかし、会社は何となく「うまくいく」ように思っていた。そして、ネットワークを拡げるという一点にしぼった経営で15年経った。

美方町の思い出は、私のなかで、楽しいものになっている。

最後に一言、誤解を恐れずに言ってみたいと思う。結局、美方町というのは、オチコボレだったと思う。ついでに言うと坂本さんもオチコボレだったし、私も私どもの事務所もオチコボレだった。どの科目もそこそこの合格点をとれるという、素質も力もなかった。

だから、緑=ネットワークの一点突破を図った。今日本は、国も国民もオチコボレになっている。どこかの事例を学んで、うまくやればいいというような見本はない。美方町の方が先を歩いていたのかも知れない。