バスと私のお伽噺・夜の闇が怖いという運転手さん

わがふる里は、標高350メートルの盆地(村全体で300余戸・1200〜300の人口)で、私の家は盆地の取っつきのムラ(集落)の真ん中あたりだった。そんなわけで、駅のある町から上がってくるバスの終点のバス停になっていた。
バスの最終は午後8時ごろで、運転手さんが我が家の離れにとまった。翌朝6時か6時半ごろ始発バスとして下っていくのだった。
戦争がたけなわになってくると、ガソリンはもとより石炭も使えなくなり、木材を握りコブシ大ぐらいの大きさに切り割りしたものを、バスの後ろの大きな窯に入れて、木ガスで走っていた。夏の間は、朝になるとその薪に火をつけ大きな窯の横についた扇風機のようなものを回して火力を付けた。私は運転手さんと親しいので、それを回すことの手伝いをさせてもらえた。これが、仲間内ではかなり得意なことであった。
さらに秋になって朝の気温が下がると、そのようなやり方ではエンジンがかからなくなった。盆地の入ってくるところが小高くなっているので、そこまでバスをもっていって路肩に止めておいて、“転がし掛け”という方法で動かした。
書いていると思いだしたのだが、安枝さんという方だった。夜、最終のバスがついて乗客が下りると、安枝さんが「こんばんは」と云って我が家に来られ、子供の私がバスに乗せてもらって峠まで行き、そこから二人で歩いて、話をしながら家へ帰るという日々だった。
ある時、安枝さんが自分の時計を見せ、「これはどう読む」と聞いた。「セイコ?かな」というと、「英語が読めるんだな」と云った。セイコーの時計だったのだ。少なくともローマ字が少し読めたということは戦後の5年生の頃だったかもしれん。その頃まで木ガス車か石炭車が走っていたことになる。
わが人生で英語力が最高だったころの話。